『心の傷が見える少年と』

 僕は人の心の傷が見えた。

 それはその人の体のどこかに仄暗い傷として目に映った。それが心の傷なのかはよくわからないけれど、それが消えた人が心が癒えたといったので、僕にとってはそれは心の傷だった。

 ただ、僕は僕自身の傷を見ることができなかった。他人に見えたその仄暗いものが自分に目を向けてもさっぱりと浮かんでこない。何故なのかはわからない、ただそういうものだった。

 でも、もし見ることができたのなら。

 あの人を失ってついた傷はどんなふうに残っているのだろう。

 お墓参りの時に自分の体を見つめながら、そんなことを思う。

 父さんが遠くで僕のことを呼んでいる。寺の住職に挨拶だけしてもう帰るそうだ。僕はわかったよ、と返してお墓に踵を返した。時々、思うのだけれど、お墓というのは死んだ人のためにあるわけじゃなくて、生きている人が死んだ人たちを思い出すためにあるんじゃないだろうか。少なくとも、僕はいつもここに立つことで、数少ない記憶を思い出そうとしていた。

 母さんが死んでからちょうど1年がたった。

 どんな人だったかと言われると、実はあまり印象がない。母さんは、ある日唐突に病気に倒れて、2か月ほどであっという間に死んでしまった。死の直前の2か月すらあまり印象的なことがなく。僕と父さんが病室にお見舞いに行くと、てきぱきと自分が死んだ後の事後処理を計画しているような人だった。葬式がどうだ、保険がどうだ、僕の進学用の預金がどうだ、これからの家事がどうだ、生活サイクルがどうだ、各種支払いがどうだ。僕も父さんも半ば呆れながら、その話に付き合い、とりあえず生活もどうにかなるかなと計画がひと段落したころで、ぽっくりと逝ってしまった。
 まるで、必要なことは終えたとばかりに。

 ある日、病室に行くと、医師がちょうど死亡の確認をとっていたところで、僕に母さんの死を告げた。

 なんともまあ、あっけのない人だった。

 母さんが死んだ日。僕も父さんも、なんだかよくわからないまま呆然としていたことはよく覚えている。

 そのあとは、母さんの計画していた通り、親戚への連絡や葬式の準備をして、計画していた通り僕と父さんは、それからの生活を営んでいった。共働きで、小さいころから留守番していたこともあり、僕はもともと大体の家事ができた。そんなだから、母さんにあまり何かをしてもらったという記憶がないのかもしれない。

 自分の傷を見たいのは、自分自身でさえ心があやふやでわからないからだろう。あの人が消えたことで僕につけた傷は、本当にあるのだろうか、それとも実は傷なんてこれっぽっちもないんじゃないかって。

 住職のあいさつを終えて、僕と父親は寺から出て門をくぐろうとした。だけれど、4人家族が向かいから来たので、僕たちはわきに避け 「「あ」」

 僕とその子はお互いの顔を見た瞬間に声を上げた。いつだったか、路上で見た心が傷だらけの子だった。

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「ここには何しに来たの?」

「墓参り、お母さんの。そっちは?」

「私も墓参り、っていっても私はひいおばあちゃんのだけれど」

「そっか」

 母さんのお墓の近くに腰を掛けて、僕たちはそんな話をした。お互い、いつか路上で声を掛け合った仲だった僕たちは、そのまま分かれるのもあれだったので、なんとなく話をすることにした。父さんは、僕のその話を聞くと、分かったといって先に帰った。彼女の家族はお寺に挨拶に行っていた。

「ふーん、そっか。お母さんか」

 妙に納得したような感じで、彼女は独りごちていた。

「・・・なんか、気になることあった?」

「いや、なんか合点がいったというか。あんな強い思いがあるのはそりゃお母さんだろうなっていうかな」

 説明はしてくれたけれど、妙に要領を得ない感じの返答だった。僕が首を傾げていると、彼女は座っていた僕の真正面に立つと少し真剣みを帯びた表情で僕に向き直った。

「私が、幽霊が見えるって言ったら信じる?」

「幽霊?・・・って、あの死んだ人の思いとか、そういうの?」

「そうそう、前会ったときあったでしょ?あの時、君にすごい強い思いを持った霊がしがみついてたんだよね」

「強い、思い」

「うん、ずっとついてるとつかれた人がしんどいから、その人には話しをしてて少し離れてもらったんだけど。あんなに、強い思いを持つ人はあんまりいなから。まあ、母親だったら納得かなって」

 彼女のちょっと緊張した風に、そんなことを言った。幽霊、強い思い、母親。出会った日に少し肩が軽くなったこと。いろんなことが、流れるように頭の中を過ぎていった。

「・・・・そっか」

「あれ、信じたの?」

「うん、なんか、納得できたから、かな。君のことも、母さんのことも」

 突拍子もないことだけれど、そういわれるとあの日、彼女と出会ったすべてに理由がついたような気がした。

「ふうん、じゃあもう一つ聞いていい?前会ったとき、君は何で私の痛いところが分かったの?」

 そういわれて、僕は顔を上げた。彼女の傷は依然見たときの通り、細かいものがいっぱいついていたけれど、少しマシになっているような気がした。

「僕が、人の心の傷が見えるって言ったら信じる?」

 少し笑ってそういうと、彼女は一瞬きょとんとしていたけれど、少ししてからくすっと笑うと。

「そっか、それであんなこといったの。納得」

 いとも簡単に信じてくれた。でも、なんとなく信じてくれるとお互いに分かっていた気がした。

 それから、僕らは話をした。お互いが見えているものとか昔のこととか。

「お母さんが死んで悲しいかわかんないの?」

「うん、あんまり印象になくてさ。自分でもよくわからないんだ、自分の傷は見えないし」

 彼女はふうむとうなると、軽く僕の手を取った。それから、少し中に引っ張ってある場所でぴたっと止めた。

「わかる?」

唐突にそう聞いた。

「そこにいるよ」

「え?」

「君のお母さん」

 思考が真っ白になった。母さんが?ここに?

 手の感覚は僕に何も伝えてこない。でも、彼女の真剣なまなざしがそれが真実だと伝えていた。

 母さんはきっとそこにいるのだ。

 僕は黙った。 

 何か言えばいいのだろうか。伝えるべきことがあるのだろうか。自分たちは無事だとそう話せばいいのだろうか。

 喉の奥の少し下が、ずきっと痛みを訴えた。

 「大丈夫?」

 「ちょっと、痛い、かな」

 彼女はそれを聞くと、黙って僕の手をおろした。

 「痛い、痛いなあ」

 じくじくと痛みは広がっていった。生活の流れの中で忘れていたそれが思い出したように噴き出していた。

 だんだん、ひどくなってくる。

 訳が分からなく、情けなくて、涙が出そうになった。

 それから。

 僕は。

 母さんが死ぬときに。

 泣き損ねたことを。
 
 思いだした。

 ほんとは。 

 泣きたかったのに、なあ。 

 ぽたりと、なにかの雫が零れ落ちた。

 そのまま。 

 優しい手になでられるまま。

 僕は泣いていた。 

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