ティーバッグを浸す時間1分。
陶器の蓋をして、芳醇な香りが充満したダージリンをカップに注ぐ。
スティックシュガーは1袋の半分だけ。
華やかな香りの湯気にうっとりしながら、
きらきらとした砂糖粒を、琥珀色にゆっくりと溶かしていく。
……ゆっくりと……
―*―*―*―*―
晴海が医者だった信也と婚約したのが9年前。
籍を入れたのが8年と2ヶ月前、信也の両親と同居を始めたのが7年と8ヶ月前。
「母さんは糖尿だから、スティックシュガーは必ず1袋の半分だからね」
信也がその言葉を口にした日の夜から、晴海にとって「セックス」は「作業」になった。
気持ちが悪かった、全てが冷めてしまった。
いや、もともと冷めるような愛など存在したのだろうか。
―*―*―*―*―
「晴海さんの淹れる紅茶、何年飲んでも飽きないわ」
「そうですか? お義母さんの行くお店の方が、よほど手が込んでると思いますよ」
「駄目駄目、香りが高いのは、最初の2、3回だけ。
あとは、そうねえ、磨り減ったビデオで見る飽きた映画みたいなものかしら」
「ふふふ、わたしの紅茶は色褪せないDVDなんですかね」
手入れされたテラスの観葉植物が、月明かりを飲み干した夜露に濡れている。
義母は車椅子になってから、ここでティーカップを回すのが日課になっているようだ。
晴海は義母の斜め前のある椅子に腰を落ち着けた。
―*―*―*―*―
「法要の手配はもう済んだの?」
「ええ、後は来週、皆さんが集まってからで」
信也が脳腫瘍で死んだのは5年前。
医者の不養生。そんな在り来たりな格言がぴったりだった。
死の数年前、信也の父が死んだ。晴美にとって義父である。
義父も外科医で、それは大きな病院を経営していた。
信也は、その病院を莫大な遺産ごと相続する事になった。
父の死、遺産相続、驚天動地の連続に信也は狼狽してばかりだった。
一人冷静なのは晴海だった。
―*―*―*―*―
「あの時は、晴美さんだけが落ち着いてくれてて、とても助かったわ」
義母は、褐色のダージリンを水鏡にするように覗き込んだ。
「あ、いえ、信也さんもすごく戸惑ってたし。
無理ないですよ、いきなり大病院の医院長ですからね」
「それに、莫大な遺産も、よね?」
義母の無機質な声色に、晴海は即座に顔を上げ、義母の退色した瞳と視線をぶつけた。
―*―*―*―*―
地元の盟主であり、大病院の医院長である信也の父が、余命幾ばくも無い事を聞かされたのは、
信也と3回目のホテルに泊まった夜の事だった。
この日、堰を切ったように悩みを吐露し、実家の事情まで語りだした信也を見て、
信也にとって自分は「始めての女性」である事を本能的に悟った。
自分だけに悩みを打ち明ける信也を、哀れにも愛おしくも感じた。
そして、無性に信也と結婚したくなった。
いや、しなければならないと決意した。
あともう少しで、信也には莫大な遺産が相続されるのだから。
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「お義母さん、前にも言ったはずですよ」
「わかってる、わかってるのよ、
あなたが信也を心から愛して結婚した、て事は」
義母は枯れ枝のような腕で車椅子を押すと、ベランダの引き戸に手をかけ、生温い夜風を招き入れた。
「でも年寄りになるとね、一日中可笑しな事ばかり考えてしまうものなのよ。
しかも体がこんなになってからは特に、あなたもじき解るわ」
年寄りの考え事は恐ろしい、少なくともこの義母の考え事は。
なぜなら、事の本質を図らずとも捉えているからである。
―*―*―*―*―
休日のある日、信也が道端で倒れた時にはもう手の施しようが無かった。
信也の脳は、ゴルフボールほどの腫瘍に巣食われていた。
抗がん剤で呂律を奪われながらも、自らの病状を客観的に分析する信也の姿に
晴海は彼にとってのアイデンティティーが何であるか、出会って初めて知った。
信也の遺体が霊安室に置かれ、線香の匂いが服に付着した晩、
弔問客の手前、ハンカチで顔を覆いながら入ったトイレの個室で、晴海は軽く拳を握った。
思えば、信也と結婚したのは、この瞬間のためであったと言えるだろう。
それがこんなにも若くして。
晴海は、若い頃踊ったあの曲に合わせて、鏡の前で無意識に踊り始めた。
嬉しくなるとつい踊ってしまった、あの曲に合わせて。
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「信也の遺言、守ってくれて有り難う」
「ん?、何ですか急に改まって」
「私の面倒、ちゃんと見てくれてるじゃない」
「そんなの、当然の事ですよ」
晴海の紅茶は、夜風で冷めた所為もあってひどく甘かった。
義母の紅茶はどんなだろう?、試したくも無いが少し興味はあった。
「私が死ねば、信也の遺産は全て晴海さんのもの、よね?」
一つ、また一つと消えていく灯りを背に、義母は晴海に振り返った。
「もう、お暇だからって、くだらない事ばかり考えないで下さいね」
溶けるような笑みを浮かべる晴海に、義母の皺が刻まれた目元がほころんだ。
「晴海さん、もう一杯淹れてくれるかしら」
「お義母さん、最近糖尿がひどくなったんでしょ?。
砂糖は控えないと、命にかかわっちゃいますよ」
「老い先短い命が少し縮まってもね、これだけは止められないのよ。
スティックシュガーは1袋の半分だけ、本当はもっと甘い方が良いんだけどね」
「はいはい」
晴海はキッチンの戸棚を空け、スティックシュガーの入ったケースを取り出した。
ティーバッグを漬す時間は1分。陶器の蓋をして、芳醇な香りが充満したダージリンに、
スティックシュガーを、1袋、すべて注ぎ入れた。
義母には内緒で、もう、3年も前から必ず1袋。
とても、とても甘いはずだ。
過度な糖分は、高齢の糖尿病にとって命取りらしい。
ドラマのようでとても面白かったです!
ありがとうございます。 暗い(黒い?)話ばかりで恐縮ですがw、今後ともよろしくお願いします!