並木道が薄紅色に染まり、少し歩くと汗ばむほどに温かい空気が街をラッピングする。
中学3年になった祐二にとって、春という季節は「再生」と「希望」を託す暦であった。
「クラス替え」に対する生徒の感情は一概ではない。
悪友との別れを惜しむ男子、連れとの別れを嘆く女子、
いじめから開放される事に歓喜する者、周囲の変化に無関心を装う者。
「クラス替え」というパワーバランスのシャッフルは、生徒達の運命すら左右する。
いまいち目立たなかった生徒が急激に頭角を現したり、
逆にそれまで維持していた権力の全てを失う生徒も居る。
「クラスが変わっても、休み時間は遊ぼうね」
この約束が2ヶ月以上維持される事はごく稀なケースである。
時間の経過と共にお互いの距離は希薄になり、廊下をすれ違うたびに視線は泳ぎ、気まずさが漂うのだ。
そして、このクラス替えに自らの命運を託す者達も存在する。
前クラスでイジメに遭うか、或いはクラスの影的存在に追いやられるか、
彼らにとってはクラス替えの瞬間こそが、自らをリセットする唯一のチャンスである。
祐二は2年4組から、3年4組へと教室を変えた。
針が触れただけで破裂するような、膨張した風船にも似た空気が教室に流れる。
休み時間に席を離れる者は、友人と同じクラスになった者だけ。
彼らは獲物を仕留めた野生動物のように、誇らしげな目つきで教室を見渡している。
やけに話し声が大きいのは、最初から「友達が存在する」事を誇示したいのだろうか。
祐二は久方ぶりに安らかな昼食時間を過ごせた。
後ろの席からペンシルを刺してくるものも居ないし、弁当に牛乳をかけてくる者も居ないからだ。
祐二はそんな目に遭遇した時、必ずこうリアクションする。
「おいおいお前ら、俺が自分で牛乳入れようと思ってたのによお。
ほら、クリームリゾットみたいで旨そうじゃん。もう少し入れるから貸せよ」
自分はイジメられているのではない。
あくまで彼らと「遊び」、むしろ自分から楽しんでいる。
こうして見せなければ、自分がイジメられているという実態を曝す事になるから。
周りに女子が多い時ほど、祐二は痛々しいほどふざけて見せた。
しかしそれは、イジメる側にとってこれほど面白い反応は無い。
「よおしもっと入れるぞほら、フランス風の完成だこりゃ」
数滴の牛乳に侵された白米なら致命傷には至っていなかったが、
筑前煮やウィンナーまで乳白色に陵辱されると、それはもはや残飯との境目すらぼやけてきた。
その残飯を、祐二は誰にも見られない帰り道に捨てた。
帰宅して母と目が合った時、祐二は心臓を握り潰されたような哀しさに襲われた
こんなつまらない意地が良好な結果に結びつく事は、まず無い。
「イジメられている」という立場は、客観視すればこれほど有利な立場は無いわけで、
教師や親にどれほど酷い仕打ちに遭っているか主張すれば、彼らを断罪する事も可能である。
しかし祐二にそれは出来ない。
それよりも、「イジメられている」という立場を曝す事が百倍屈辱であったのだ。
校舎の周りに駐車された車の窓ガラスは、ゴビ砂漠からの迷惑な贈り物で黄色く曇り、
桜並木も異様なほど青々としたグリーンに覆われてきた。
祐二に残された時間は短い。
案の定、権力の維持を狙う「強い」連中が、早くも新しい連合を組織し始めた。
祐二はそんな「強い」連中を、心の中で「サメ」と呼んでいた。
「サメ」は血に飢えている。クラスを周泳しながら、イジメ易い生け贄を品定めしているのだ。
鉛色の空が重苦しいある日、登校し、教室に入った祐二は強烈な吐き気に襲われた。
見てしまったのだ、あるモノを。
それは、祐二の席の横だけ不自然なスペースが空いた女子の席だった。
前のクラスでも、その前のクラスでもそうだった。
新しいクラスでこそ女子と普通に話がしたい、祐二の願望は早朝の露と消えた。
祐二は休み時間になると、決まって彼の席へ直行した。
明らかに自分と同じ匂いのする彼。彼もまた、隣の席は不自然なスペースができている。
彼と話しているのは楽だった。
今までの自分で居られるし、何も変化を起こさなくても良いから。
しかし祐二はそんな現状を嫌悪した。
これでは何も変わらない、同じ穴の狢とだけ話して、また毎年毎年の繰り返しだ。
このままでは女子の席も前後に移動したまま戻って来ないし、
体育の時間には、またびくびく怯えながら高速で着替える事になるのだ。
それでも、それでも祐二は彼と付き合う事を止められない。
誰かと話している事を周りに見せたい、休み時間に独りだと思われたくない、
それが全てである。
木の芽時、緑色をした空気がを宙を舞っているような新芽の匂い。
祐二にとって、この匂いは最後通告だった。
ここまでで形成された人間関係は、蒸し暑い雨の振る頃には既成事実と化してしまう。
祐二は空けていた部屋の窓を閉め、乱暴にカーテンを引いた。
そして青い表紙のB4ノートを取り出し、机のスポットライトを点けた。
1.「サメ」の中で二人ほどと交友を持ち、休み時間自由に歩けるようになる事
2.普通に話せる女子をつくる事
3.弱いヤツを見つけ、「サメ」の連中と混じりイジメてやる事
最初のページに大きな文字で書かれたその目標は、現在一つとして達成の見込みすらない。
遠目で見ると灰色の紙であると錯覚するほど、おびただしい文字が刻み付けられた日記帳。
祐二は白いページに、今日も感情を殴りつけていく。
先生よ、俺を指さないでくれ。俺が立って答えると薄ら笑いが聞こえる事知ってんだろう。
下駄箱へ近道しようとしたら女子連中が路肩にたまっていた。
俺は遠回りをした。みんなどうして自由に歩けるんだ?。
明日から上靴は持って帰ろう。もう売店で買うのは嫌だ。
磨耗されるシャープペンシルと共に、祐二の激情が黒く刻み付けられていく。
書いて書いて、書けば書くほど、祐二は不変という泥沼のような深みにはまっていった。
いつの間にか降り出した雨が、静かなスタッカートのリズムで窓を叩き始めた。
点けたままのテレビから、「もう間も無く梅雨入りですね」とやけに陽気な声が聞こえた。
もう手遅れだ。もう全て手遅れなのだ。
緑色をした桜並木は温かい雨で濡れている。
春はもう、終わってしまった。
この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。