『青年と誰か』

 拙い言葉をあと幾つ積み上げたらいいのだろう。

 自分というのものが伝わらない、と感じたのはいつからだったっけ。

 覚えていないくらい昔のことのような気がした。

 そもそも最初に何かを書きだしたのは何のためだったのだろう。

 僕の言葉は僕を理解してほしいがために書くけれど、書いても書いても、僕自身には程遠い何かができていくような気がした。

 分かってほしかった。解ってほしかった。理解と共感が欲しかった。

 なんなら、僕の心を開いて人に見せてみたかった。

 僕の目が見るものを記録して誰かに代わりに見てほしかった。

 僕の脳を使って人にものを考えてほしかった。

 違うんだ、僕はみんなが考えるわかりやすい何かじゃないんだ。それをわかってほしいんだ。

 心が、目が、脳が何もかも人と違っているのだ。それをわかってほしかった。

 理解を得られない心は溺れる人のようで、空気が足りない、酸素が足りないともがくけれど、もがいてももがいても逆効果なのだ。

 欠乏感と焦りだけが視界と喉を塞いでいた。

 そうやって、苦しんで、苦しみの果てに僕は伝えることをあきらめた。

 手が、足が、目が、耳が、喉が、体が、そして心が伝わらないことを理解した。

 僕が本当の意味で解られることなんてないのだと、溺れた末に結論を出した。

 

 そこまで来た。確かに、そこまで来た。

 ただ、そこで気が付いた。

 理解されることをあきらめて、伝えることをあきらめて、そこまで来てようやく気が付いた。

 たぶん、いつからか人の話を聞くようになったのが原因なのだろう。

 理解されない、と悩む人がいた。

 僕は、その人のことを理解できなかった。

 理解しているといった人がいた。
 
 僕は、その人が理解できていないことを理解した。

 ・・・・あれ、と疑問が芽生えた。

 今まで、僕は自分以外の人間は少なくとも仲のいい人間くらいは理解しあっているものだと思っていた。

 でも、そうじゃないんじゃないのか?

 ともすれば、当然の事実として人間はそもそも理解しあうことなどできないのじゃないかと。

 相手のことなど理解はしていない。相手のことなどわかりきっているわけじゃない。

 そもそも、僕はその人がどんな人生を歩んで、誰と出会って、何をして、何を思ったかほとんどのことを知らないのだ。そして、それは大半の人が同じだった。

 通じ合えたとか、知り尽くしたとか思っても、まだ見えないことはたくさんある。仮に見えていても、それは今そこにいるその人だけ。

 言ってしまえば、僕らは人間というサイコロの表面を眺めているだけで、それがどんな材質なのか、中に何が入っているのか。そもそも、中から見える景色がどういったものなのか、知りはしない。

 想像はできた、それが役に立つこともあった。でも、それは所詮想像だ。

 僕なんかには予期できないことはこの世の中にはいくらでもあった。つまり、それだけいろんな人生があった。

 伝えることはあきらめた。より正確に言うならば、自分のことを自分が見えている風に、完璧に何もかも過不足なく、そんな理想の伝達はあきらめた。

 でも、伝わらなくても、視点が違っても、価値観が違っても。

 笑うことくらいはできる。きっと。

 わからない、もしかしたらそれくらいしかやることがないのかもしれない。

 わからない、本当は理解できない不満をただ誤魔化しているだけなのかもしれない。

 でも、それでもきっとわかりあえなくても。

 笑いあえれば何か、価値があるような気がした。そんなことを誰かとしゃべりながら、思う。

 だから、僕は人と話をする。解らないことだらけだ。

 だから、僕は人と話をする。君はよく解らないねと言われる。

 そうしたら僕は、でしょうね、と笑った。笑い返すかは相手次第。

 つまりそういうことなのだと思う。

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