『声の出ない子どもといつか諦めた少女』

 その日、僕らは散歩をしていた。

 よく晴れた日で風がとても心地いい。

 新入りの男の人と一緒に病院の敷地をとことこと歩いていく。

 ヤマネが後ろから車いすを押して、ミカが横で車いすを支えている。サラお姉さんが、男の人になにやら耳打ちをしていた。

 しばらくすると、車いすの近くにいた二人がよろしくお願いしまーすと声を上げた。

 いつものようこその儀式みたいだ。僕は声を出す代わりに大きく手を振った。

 止まったままの車いすを置いて、サラお姉さんがこっちに歩み寄ってくる。

 後ろの男の人は泣いているように見えた。どうしたのだろう、と首を傾げるとサラお姉さんは優しく微笑んだ。いつも不愛想な顔が多いサラお姉さんが見せる、珍しい笑顔だった。

 「ほら、行こう」

 お姉さんに言われるがまま歩き出す、車いすは少し遅れてキイキイと音を立てながらついてくる。

 僕は少しだけ振り向いて、うつむいて顔が見えない男の人を見た。入院用の簡易的なズボンに涙のシミが見えた。

 泣いているのだ。どうしてかはわからないけれど。

 僕はわからないまま、駆け出した。サラお姉さんは少し僕の手を引いて止めようとしたけれど、少ししてから離してくれた。

 僕はそのまま男の人に近づく。近づくとよくわかったけれど、やっぱり泣いていた。ヤマネとミカは車いすを押しながら少し困った顔をしていた。僕はすいと男の人の顔を下から覗き込む。目を閉じて、唇をかんで、何かをこらえるようだった。でも、その隙間から涙はぽたぽたと落ちている。けがをした腕や足が痛むのかもと思ったけれど、痛みに耐えている人はこんな泣き方をしないいように思えた。

 僕はミカと車いすの逆のほうに立って服の袖で男の人の涙を拭いた。男の人が少し目を開いてこっちを見た。目を開いたから、せき止められていた涙が頬を伝って落ちていく。顎から落ちそうになる涙を逆側の袖で拭いた。

 そんなことをしながら車いすを押していくと、立ち止まっていたサラお姉さんのとこまで追いついた、お姉さんは車いすの横に並んで歩くと、僕の頭にぽんと手を置いた。そのまま、少し微笑んだまま優しく髪を撫でていた。

 お姉さんが僕のあまたを撫でて、僕は撫でられながら男の人の涙を拭いた。なんだかちょっと、面白い形になった。

 そんな僕らを見て、ミカとヤマネが俺も私もお姉さんにご褒美をせがむ。お姉さんはなにそれと軽く笑って、結局二人の頭を撫でていた。

 男の人は気づいたら泣き止んでいて、風に揺られる木を目を細めながら見ていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 私が看護師として働き始めて、まだ間もないころだった。

 ドクターが唐突に子どもを連れてきた。誘拐したんですか、とねめつける様に私が言うと、ドクターはすごく自然な調子で明日からこの子もここで暮らすんだ、と言った。はあ?と思わず口から声が漏れる。何言ってんだ、このボケ医者と言いかけたところで、言いつけを思い出して口を閉じる。むやみやたらに人を、なによりそう言うことで自分自身を傷つける言葉を使わないこと、そんな目の前の人のいいつけを思い出す。

 とりあえず、何かやるべきことを教えてあげてよ。

 そんなふうにドクターは引いていた子どもの手を私に預ける。私は軽くため息をつきかけて、呑み込む。

 「そういえば、あなた名前は?」

 私がそう尋ねると、子どもは首を傾げる。私はそれを見て、思わず首を傾げ返すけれど、一向に返事は来ない。

 ドクターと言いかけたところで、ドクターは思い出したように言葉を付け加える。

 その子、言葉がしゃべれないから。

 ええ・・・。

 数日を経て、その子について分かったことがいくつかあった。まず、実際に言葉は喋れない、それどころか驚いたり痛がったりしても声を上げない。一度、喉に触れて試したことがあったけれど、そもそも声帯が震えている様子がない。二つ目はこちらの言葉は理解できている、ただ難解な用語は理解できていない感じだった。三つ目に読み書きはできない、まあ拾ってくるような子どもだから当然と言えば、当然なのだけれど発話と文章が封じられた時点で、その子の正確な意図は確認のしようがない。・・・・なかなか、難題な話だった。

 この子にできることは何だろう、まず生活の仕方からだろうか、簡単な仕事と言っても何をしてもらえばいいのだろう。私は私のやるべきことで手いっぱいだし。一応、余った時間で伝えれる限り伝えるけれど、一生懸命伝えてもあまり伝わっている気がしない。何を言っても、首を傾げられているだけのような気がしていた。

 どうすればいいいのか、わからない。

 ドクターにそのことを報告すると、あんまり焦りすぎないことだよ。と言われた私ははあ、と生返事をする。正直、参考にならない。ドクターはそんな私をしばらく見てから、ゆっくりと言葉を付け足した。

 何かをやらなければいけない、と考えると焦るからね君もあの子も。焦ると、先のことばかり考えて今の自分たちが見えなくなる。そして、今の自分が見えなくなったら結局、先には進めないんだよ。だから、今、何が楽しいとかどうればうれしいとかそこから感がていった方がいいのかもしれないね。

 今日はどうせ病院も閉めるから、二人で休みに出ておいでと、そんなことを言われた。

 言われたことを、正直、あまり呑み込めないまま子どもの手を引いて、散歩に出かける。ちょうど夏が過ぎて、風が少し心地よくなるころ合いだった。さあさあと木々の隙間を音が撫でていく。

 街に出るような気分でもなかったから、林を抜けて少し開けた草原に出た。ここはどこ?というように子どもは首を傾げた。

 「んとね、私のお気に入りの場所。私はゆっくりしてるから、あなたも自由にしてていいよ」

 そういうと、その子は軽くうなずいてとことこと草原の中を歩いていく。ここはいい場所だ。見晴らしもいいし、危険も少ないなにより、過ごしていて気持ちがいい。私は長く息を吐いて、木陰に腰を下ろした。なんだか久しぶりに肩の荷が下りたような気がした。そういえば、随分と気を張っていたような気がする。息を吐くたびに肩についた重りが少しずつ取れていくような感覚があった。

 目を開けると、小さな笑顔がそこにあった。ニコッと笑って手にはたくさんの花が握られている。どうやら私にくれるらしい。

 「ありがとう、えーと、そういえば名前、結局聞いてなかったね」

 頷く。

 「何にしようか、元からの名前はあるの」

 首を横に振る。

 「そっか、じゃあ名前付くの初めてなんだ」

 頷く。

 「私がつけていい?」

 頷く。笑顔で。

 「うーん、何がいいかな・・・」

 首を傾げる。風の音がさあさあと音を立てる。

 「・・・アキっていうのはどう?」

 笑顔でにっこりと頷いた。

 「そか、じゃあ改めてありがとうアキ」

 頭を撫でると、子どもはアキはうれしそうに笑った。
 初めて、この子のことが少しわかった気がした。

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。