『森を抜ける』

 大人たちが私に望むのは、何も知らないこと。

 大人たちが私に望むのは、何もできないこと。

 大人たちが私に望むのは、何者でもないこと。

 実際、いつだったかそう口にされた。

 だから、私はそうした。そうなるのがいいのだと思った。そうするしかないのだと思った。

 それがすべてだった。それしかなかった。それでよかった。

 私の住む場所は森の中にあって、時折世話をする人が尋ねてくる。それが家だった。

 森の外に出てみたくなったのはいつだったろうか。

 大体、数え年で10を越えたあたりだろうか。

 生活は幸せだった。不自由は決められた先に行ってはいけないことだけ。たった、それだけ。

 小さなころ一度、そこから出たことがあったが、すぐに大人が来て森の外には命の危険があるからと諭された。私はその教えに黙ってうなずいた。それ以降、その先に出ることはなかった。

 10を越えてなぜそこを飛び出したのかはわからない。

 なんとはなしに立った、境界線の上で考える。

 私は今、一歩踏み出せばここを越えていける。

 ここを越えれば、命が危ない。でも、命ってなんだろう。私はなにもしらない。

 誰かが背中を押していた、いこう、いこう。怖い、という思いはあまりなかった。後ろの方で君は何もできないよと誰かが言った。でも足は動き出した。

 走った。興奮だけがあった。

 木の根を飛び越える。石の上を跳ねて、次の石まで飛んでいく。

 なんだ、できるじゃん。

 なにもできないなんてことないよ。後ろにいる誰かに向かって声を出した。

 息が切れる。こんなに走ったことはない。こんなに飛んだこともない。

 おなかの横のあたりが痛くなった。

 でも、足は止まってくれない。私の想いとは無関係に回り続ける。

 理由のない誰かに背中を押されている。形のない誰かが前に引っ張ている。

 走れ、走れ。進め、進め。抜けろ、抜けろ。森を抜けろ。

 夕暮れ時に飛び出した森は段々と暗くなっていく。

 振り返ってはいけない。頭の後ろの誰かがそう言った。

 日が差す頃に私は森を抜けた。

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