『10月1日』

 するりと滑り落ちたタオルケットの下、露になった素肌を月影の吐息がふわりと撫ぜた。
 すっかり冷たくなったダブルベッドから身を起こせば、月明かりに浮かぶフローリングの上、脱ぎ散らかされた女物一式の洋服が目に入る。
 ローテーブルに置かれたままの珈琲と、水面に揺らぐ黄金色の光。そっと視線を上げると、半開きになったカーテンの奥…澄んだ秋の夜を大きな月が照らしていた。
 …ああ、今日は十五夜だっけ。君が紫煙を燻らせていた月はいつも青色で、こんなにも満ちていなかったのに。
 夜風に靡くベランダに“君“の幻を垣間見て、独り小さく嘲笑を零した。

 本当なら、今日で3年目だった。先にどちらから言い出したのかも覚えていない、いわゆる体だけの関係。月に一度どちらかの家に泊まって、お酒を飲んで、夜が明けるまで渇きと寂しさを満たし合う。
 それだけの仲ではあったけれどお互い本当の恋人のように振舞っていたし、私も最初の記念日には香水、2回目にはネクタイを贈っていた。
 …だけど、所詮は真似事。一夜の間は恋人でも、日が昇ればまた『他人同士』に戻ってしまう。
 心地良かった。君との時間が、君との温度が。友達未満恋人以上の宙ぶらりんなこの関係が。永遠とまでは言わないけど、暫くはこの関係が続けば良い。…そう思っていたのに。

「…もう、終わりにしよう」

 つい数時間前の出来事だった。一月ぶりに再会した私の家、お酒を開けるのも待たずに早々に切り出された言葉。
 淹れたばかりの珈琲にも手を付けず、立ち昇る湯気を見つめたまま、君はポツリと…感情の読めない瞳で言葉を零した。

「……どうして」
「…彼女が、出来たんだ。最終的には結婚も考えている」
「そ…っか、おめでと」
「…だから、もう君とはいられない。この関係を終わりにして、俺達も『ただの友達』にならないといけない」

 「ごめん」それだけ残して立ち去ろうとした君を、私は縋るように引き留めた。
 最後に一度だけ抱いて欲しいと。…それで全て忘れるから、本当に終わりにするからと。
 この期に及んで面倒な女と、君はそう思ったかもしれない。眼鏡の奥で揺れる瞳は、困ったように私を映していたけど…やがて静かに視線を伏せて、何も言わず私に口付けた。

 最後の戯れ。最後の我が儘。互いの存在を焼き付けるように、獣のように貪り合った。
 大好きな声に身を震わせて。指先から溶け出した熱に酔いしれて。…それでも、君の纏う香りはあの頃とは変わってしまっていて。
 気付いていた。行為中、慈しむような手付きとは裏腹に、君は一度も視線を合わせなかった事に。
 火照る身体は満たされていたはずなのに、心はぽっかりと口を開けたままだった。

 目が覚めれば、ベッドサイドに無造作に置かれたネクタイが寂しげに私を見つめていた。微かに部屋に残る嗅ぎ慣れない香水と、丁寧に記された「今までありがとう」の書置き。遠い昔にも思える現実を、靄のかかった頭でぼんやりと反芻する。
 …ああ、君はもういない。きっと二度と会う事も無い。
 額に落とされる唇の温もりも、絡めた指の感触も、全部…『思い出』になってしまった。

 いつの間にか、満ち切った月はまた深く傾いていた。十月初めの澄んだ夜風に、冷めきった珈琲の中の虚像がさざめいてかき消される。
 空白に漂うがらんどうの心を広いシーツに沈めて、私はそっと瞼を閉じた。
 記憶に残る懐かしい香りに浸るように。偽りに隠していた本当の気持ちに、そっと蓋をするように。

「___おやすみ」

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