『ワタシ(プロローグ)』

 死んでしまおう。
 一度生まれたその真っ黒な感情は、無色透明な水にポタポタと墨汁を落とした時のように、徐々に、そして確実に、私という人間を真っ黒に侵食していった。
 私は近所の山の奥にある百本の鳥居で連なった道を歩いている。滅多に人が来ることがなく、不気味で神秘的なその道が私のお気に入りの場所だった。百本目の最後の鳥居をくぐった時、どこか別の世界に行ってしまうような気がする。もちろん、気がするだけでそんなことはない。
百本目の鳥居をくぐった私は、その鳥居に背中を預け、腰を落とす。
私は、恵まれた人間だ。
家族との関係は良好で、友達も多くはないがいるにはいる。裕福ではないが、特に生活に困った事はない。勉強は苦手だけど、バカというほどではない。趣味だってある。
それなのに、私は死にたいのだ。家族や周りの他人に申し訳なくて仕方が無い。
辛く、過酷な境遇にあるにも関わらず、それに負けまいと強く生きている人間は沢山いるだろう。
そんな方々に対してなんて失礼なのだ。私は、最低だ。クズだ。
きっかけは些細な事の積み重ねだった。私にとっては、どれも些細な事とは思えない。しかし、他人に些細な事だと言われてしまえばそれは些細な事なのだと思った。その些細な事に苦しむ私は、駄目な人間なのだ。他人が気にしなければ良いと言う事を気にしてしまう私は、愚かな人間なのだ。
そうして積み重なった全てのものが重くのしかかり、私のそもそもあったのかどうかも怪しい自信を押し潰してしまった。要領が悪く、何もできない私が自信を完全に失うと更に何もできなくなる。
そうなると、毎日が不安で仕方がなくなる。外を歩いていると周りの他人に見られている気がするし、笑い声が聞こえると私のことを笑っているのではないかと思ってしまう。もちろん、そんなことあるわけがない。自意識過剰にも程がある。そんなことは分かっているのだ。分かっていてもこの不安な気持ちが拭い去れず自己嫌悪に陥る。
そもそも誰も私の事なんて見ていない、必要としていないのだと分かっている。それはそれで寂しいと感じ、矛盾した自分に対しても自己嫌悪に陥る。それの繰り返しだ。
生きていかないといけない。だけどもう辛いのだ。限界なのだ。未来に希望なんて抱けないのだ。
みんな決まってこう言う。
「これから先もっと辛いことなんて沢山ある」と。
そんなのは励ましじゃない。ただの脅しじゃないか。
私がぶつかった辛い出来事はそこまで辛くないと言っているようじゃないか。
この先もっと辛い事があると思いながら生きなければならないのか。
いや、もういい。もういいのだ。過去も未来もどうだっていい。
最期に一つ頑張って成し遂げてやろう。これは周りの他人にはできない事だ。
きっと、自身に満ち溢れ、明るくて、ポジティブで優しい自分が待っているに違いない。新しい自分となり、この鳥居かは新たな世界に行くのだ。
なんだかとても愉快だ。さっきまでの自分は何処にいった。
人間開き直るとこんなものだ。
よし、今ならできる。
私は制服のポケットからナイフを取り出した。
そのナイフの刃を左手首に当てる。
心臓が暴れだしている。生きている事を強く感じた。
私は断ち切るのだ。橈骨動脈と共に、この世のしがらみを。
刃を強く押し当てる。
「いったぁ・・・いたいぃいいよぉおおおお」
想像を絶する痛みだ。血と涙が止めどなく流れる。
「いやだぁああああああああいああ」
声が抑えられない。もう辞めてしまいたい。
でも、ここで逃げたらまた同じことの繰り返しだ。逃げてばかりの自分とはここでお別れするのだ。
唇を強く噛み、荒く乱れた息が漏れる。
自分の手首に深くナイフを入れる。
流石に私の力では骨まで切る事はできなかったが、右手をナイフから離しても落ちない程に左手首に深く入っていた。もう十分だ。
意識が朦朧としてきた。痛みはなかなか消えない。だけど、これで二度と傷つくことはなくなる。
体は涙と涎と血でぐちゃぐちゃだ。数時間後には、この私の体液が地球を覆ってしまうのを想像をして少し笑った。
私はやり遂げた。何もできない女じゃないぞ。
体が冷たくなってきている事がわかる。とても寒いし、とても眠たい。
ゆっくりと目を閉じる。
「母さん、今までありがとう、ごめんなさい」
そうして、私の物語は十五年間という人生のプロローグで幕を閉じた。

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