『夢見逃避行』

 サイズの合わないスニーカーの中で、冷えきった爪先が足跡の残った汚い底敷を掻く。
 コートを羽織り忘れ、とても寒くて、なかなか足が進まないし、上半身が重い。冷たい酸素に慣れていない肺がぜえぜえと鳴る。心臓が寒がっているように震えて、息が苦しかった。
 家を飛び出すときに無造作にはめたイヤホンが片方外れ、走るたびに恨めしく腿の上で跳ねている。イヤホンを付けていない方の耳が少し寒く感じる。流していた曲がひとまず終わり、耳にこもった静けさが戻ってきた。そこでやっと、今までかなりの音量で聴いていたことに気が付いた。次の曲に切り替わって、大音量の前奏が流れてきたところで、片側のみに与えられる音の違和感に不快だと思った。
 延々と同じような景色の続く静かな住宅街の小路を駆け抜ける。途中、転がったごくごく小さな石を見つけると大袈裟に飛んで避けた。ついでにイヤホンを引っこ抜いて、違和感を取り去る。両耳から首筋にかけて、すうと冷たい風が吹いたような気がした。
 ブロック塀の続くこの道が家と家の隙間からするりと入り込んだ夕焼けの光に照らされて、キラキラと輝いていた。こんな寂しい、コンクリートを雑草が割って生えているような道に、光るものなんてないはずなのに、綺麗だった。
 知らない名前の標札のかかった家の前で道を曲がり、まっすぐに進むと広い道路に出る。その道路を車が来ているかどうかも確認せず、ただまっすぐに突き進むと、照葉樹に守られているように囲まれた小さな公園に入る。
 わざわざ反対の入り口へ行くのも億劫で、勢いのまま樹木の少し先に生えている背の低い垣根を飛び越えて砂を踏んだ。
 スニーカーの下で砂と小石がかちり合う音がした。石で滑らないように足を踏ん張る。折り曲げた上半身から空気を抜くように、はあと一息深く吐くと、背筋を伸ばす。
 公園には塗装の剥がれたゾウの滑り台と、一度その姿を見たら子供が泣き出すであろう怖い顔をしたパンダのオブジェ、そして小さな砂場があるが、よく見れば近所中の野良猫の落とし物だらけで、とても遊べる場所ではない。
 誰もいない公園。誰も来ないであろう場所。忘れ去られたようなこの世界で、赤みがかった闇に呑まれたゾウや、この世の苦しみをひとえに受けているような顔をしたパンダが、俺を見ていた。
 いつの間にか気にしなくなっていた寒さがふっと体に戻ってきたところで、赤から黒に変わっていく空を見上げた。ただ遠いだけの星が控えめに、俺の見えるこの小さな世界で、ただ光っている。あの道の煌めきとは似つかない、弱々しい輝きだった。

 イヤホンを手に握りしめながら、俺は逃避行が成功したのではないかと、本当に僅かな勘違いをした。

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