『飛行少年と墜落少女』

 少年は空が飛べた。空を飛べるというと少し語弊があるかもしれないので付け足すと、ふわふわと浮けるというのがイメージ的には正しい。重力という私たちを地面に紐づけている重りを一時的になくすことができる。浮ける高さは最初は10センチかそこら、小学生に上がるころには2メートルくらいは受けるようになっていた。そして、それは手をつないでいる人間も同様に働かせることができ、小さい頃は私もよく手を握って浮かせてもらっていた。初めてその普通には絶対にありえない、無重力感と自身を支えていた重力がちぎれてなくなってしまう感覚を味わった時を私はいまだによく覚えている。
 
 少年の名前はソラ。と言っても、空が飛べたからその名前がついたわけでは当然ない。彼の両親が考えた名前の由来は恐らく、空のように心が広い人になるようにとか、そんな感じだろう。ただ、たまたま名が体を表すようになっただけ。空を飛べるといっても、ただ、たまたまそんなことができただけの普通の少年だった。

 空を飛べるという事実は、最初はソラ自身しか知らなかったことだったけれど、ある日、幼稚園がおんなじだった私にその秘密を明かしてから、彼は空を飛べる人、という認識はあっという間に広まった。それからは時に人前でそれを要求され、しばらく広まった末に地方のテレビ番組が取材に来た。ソラが小学生に上がってしばらくが立ったころだった。テレビの内容自体は超常現象の探求とかそんなものが目的じゃなくて、地方の有名人を探索しようとかそういった趣旨のものだったらしい。当日、集まった大人たちもどこか和やかな雰囲気だった。今にして思えば、話自体は広まっていたけれどソラが飛べる姿を見た人は少なく、テレビの関係者のほうも空を飛べるというのは、何かしらの比喩表現、もしくはそれっぽい何かができるといった認識だったのだろう。私はその時、友達代表か何かのような立ち位置でソラと一緒に手をつないで飛ぶという役柄だった。多くの人から見られるということで、その日、ソラも私も随分と緊張していたのを覚えている。

 結論から言ってしまうと、その時ソラは飛ぶことができた。ただ、手をつないでいた私は落ちてしまった。ソラから手を離した瞬間、今まで忘れられていた重力が私を引っ張り、そのまま地面にたたきつけた。ソラと一緒に浮いていた2メートルという高さは、小学生が大きなけがをする程度のもので、私は足を骨折することとなった。私とソラは泣きながら救急車で運ばれ、見物客が本来味わう空を飛べるという興奮や異常性もその騒ぎでかき消されてしまっていた。ソラはその日泣き叫ぶ私の隣で同じようにごめんと言いながら泣き叫んでいた。

 そんな事件があって以来、ソラは人前で飛ぶことはなくなった。

 私たちは高校生になった。
 ソラが飛べるという話もいつしかみんな忘れてしまい、ソラも私もなんてことはない高校生としてその日々を送っている。ただ、下校の途中で二人でよく寄り道をしていた。山の上のあまり人が来ない、小さな公園に。

 ソラはそこに来ると昔のように、ふわふわと浮いて山の上から街を眺めていた。

「そんなに飛ぶとみつかっちゃうよー」

 私が少し大きくしてそう声をかけると、上空で浮いていたソラは手を振ってきた。昔は空を飛べるということでよく、はみ出し者扱いされたり、からかわれたりしてもめたものだけれど人前で飛ぶことが少なくなってからはそれもなくなって久しい。

「大丈夫、頭の上なんて誰もみてないよ」

 ソラはにかっと笑っている。高い上空にいても、声色で笑っているのがよく分かった。

「それに見たって、見間違いだって納得するのがオチさ」

 大丈夫かなあ、と私が嘆息をついている間にも、ソラはどんどん上に上がっていく。小学校のころに2メートル程度だった飛行距離は今や10メートルほどに達しようとしている。年々と飛べる距離は増えていく。

「ソラ!」

 私が大きく声を上げて、右手を上に掲げた。それに気づいたソラはゆっくりと降りてきて、私の手を握った。

「・・・」

 ソラの手が私に触れた。昔のソラあるいは昔の私ならこのまま地面を離れて浮いていくことができた。

「やっぱり、飛べないね」

 私は黙ってうなずいた。私が足を折ってけがをした時から、ソラは私を浮かせられなくなっていた。なぜかはわからない。そもそも、彼がなぜ飛んでいるのかさえ、私には、ソラ自身にさえわかっていないのだ。

 ふわふわと宙に浮くソラと変わらず地面に立ち続ける私。少しの間だけそうした後に、ソラはゆっくりと地面に降り立った。地面に着地した瞬間に、ソラの周囲に合ったものが重力を思い出したように下に落ち、この場所に帰ってくる。

「なんか最近、こうしないと降りられない気がしてきたよ」

「何それ。私がいないとどっか飛んでっちゃうじゃん」

「かもしんない」

 笑うソラを端目に私たちは、山を下りた。日が落ちるのが早くなって、そろそろ冬が近づいてくる。

「ねえ」「ん?」「飛ぶのはいいけれど、ちゃんと帰ってきてよ?」「うん」

 
 時々、思い返すことがある。私がテレビのカメラの前で落ちたあの日。私とソラの手は離れてしまった。そして、それ以来、私は飛ぶことはできなくなった。ただ、一つ疑問が残る。あの時、手を離したのはどちらだったのだろう?空を飛ぶことに恐怖を覚えたのは、少年が自分の手の届かないところに行くことに恐ろしさを感じたのは。

「ねえ、勝手にどっか空の上まで、いかないでよ?」「うん」

 私はそんなお願いをいつも彼の隣でつぶやいている。

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