『台風の夜に』

台風がこの街にやってきた。どうやら30年に一度の規模の大きさらしい。しかし、去年も同じようなニュースが流れていた。地球温暖化の影響なのか。それとも単なる偶然か。そんなことは今の僕にはどうだっていい。

僕には好きな人がいる。いや、人ではないかもしれない。
その人は、ちゃんと人の形をしている。
じゃあどう考えたって人間じゃないか、そんな風に思うかもしれない。というより、普通に考えて、あの人って人間かな、それとも人間じゃないのかな、なんて考える方がどうかしている。
しかし、それでも彼女は人間ではない気がするのだ。普通の人間より、どこかか弱く、何か不思議なオーラを纏っている。
もちろん僕の頭がイカれている訳ではない。僕の頭は間違いなく正常運転をしている。

僕が初めて彼女にあったのは1年前の9月の中旬。夏の暑さが少し和らいできた頃だった。
その日、台風がこの街にやってきた。僕の住む木造のぼろアパートは、幸いにして吹っ飛ぶことはなかった。さすが築80年は伊達ではない。
しかし、廊下の雨漏りの量が尋常ではなかった。
このアパートには大家さんが住んでいて、雨が降ると大家さんがその雨漏りに対処している。
具体的には、ただ単純に雨漏りのする場所にバケツを置き、それを時々取り替えるだけである。普段の雨であればそれで全く問題がない。さすがに屋根はそれなりに屋根の役割を果たしているから、雨漏りが尋常ではないといえど、程度は知れている。

しかし、去年のあの日は違った。超大型の台風で、雨の量が一時間に300ミリを超えた。
心配になってそっと廊下を覗いてみると、大家さんがすごい形相でてんやわんやしていた。どうやらバケツの取り替えで忙しいらしい。
僕は大家さんにバレないように部屋の扉を閉めた。
実は、以前にも似たようなことがあった。その時は、大家さんと一緒に僕もバケツの取り替え作業に勤しんだのだ。というより、大家さんに無理矢理部屋から引きずり出され、手伝わされたと言った方が正しいかもしれない。
その記憶が蘇ってきた僕は、部屋から脱出することにした。このおんぼろアパートを雨漏りから守る作業に精を出すなど断固御免だ。

道に面した家の窓を開け外に出た。せっかくなので傘も持たずに僕はちょっと家の周りを散歩することにした。すごく新鮮だった。パンツの中までびしょ濡れになるのは、意外にも爽快感すら感じられた。
意気揚々と歩いていると、一人の女性が遠くの方からこちらに向かって歩いてきた。その人も僕と同じように傘をさしていなかった。長い髪は雨に濡れ、またそのか細い体を包む白い服もびしょびしょであった。遠くからでははっきりとその顔を見ることはできないが、どこか妖気すら感じられた。
僕は、すれ違う時に街灯に照らされる彼女の顔を覗いた。彼女もこちらを覗いた。その瞳には悲しげな表情が宿った気がした。
 
美しかった。

綺麗だった。

僕は彼女に一目惚れをした。

その美しさの中には同時に今にも壊れてしまいそうな弱さがあった。ちょっとでも触れたら、粉々に砕けてしまいそうな、そんな繊細さがあった。
しかし、もちろん何も話しかけることもできずに、僕はそのまま散歩を続けた。

その人のことが忘れられなかったが、あの日以来僕は彼女の姿を見ていない。
 
しかし、今日はあの日と同じ。数十年に一度の大型の台風がこの街にやってきた。僕は、この日を待ち焦がれていた。
もしかしたら、彼女は台風の日に現れる人間の形をした妖怪なのかもしれない。それでもいい。僕は彼女に会いたい。

夜になって、僕は家の窓から外に出た。去年と同じ道を歩くことにした。もし今日会えなかったら諦めようと心に決めて、僕は街を歩き始めた。暴風雨のことなんて一切気にならない。僕は彼女に会いたい。

そして、去年彼女を見た場所にたどり着いた。しかし、そこには人影が一切なかった。当たり前だ。超巨大台風が直撃している時に、この細い道を歩く馬鹿なんているわけがない。

僕は諦めて家の方に向かって帰ることにした。今までより少し雨脚が強くなってきた気がした。
公園の角を曲がって前の方を見ると、向こうに人の姿が見えた。
心臓の音が激しくなるのがわかる。あの妖艶な佇まいは彼女だ。

その距離が近づく。心臓の音がさらに強くなる。アスファルトに叩きつける雨の音よりも大きい。

「こんばんは。去年の台風の日にも散歩していませんでしたか?」
僕は思い切って声をかけた。その女性は少しだけ目を大きくさせて、僕の方を向いた。
「あ……はい。してました。」
「実は、去年あなたに一目惚れをしてしまったんです」
僕は自分自身にびっくりした。今まで告白といった類のものとは無縁だったこの僕の口から自然と”一目惚れ”というセリフが飛び出したからだった。
目の前の彼女は明らかに困惑していた。そりゃそうだ。彼女の反応は何ら間違っていはいない。
「ごめんなさい。私好きな人がいるので。一目惚れしてくれたのは嬉しいけど……」
「そうですよね。急にごめんなさい」
あたりは雨の音だけになった。僕は一つ聞いておかなくてはならない気がした。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何ですか?」
「何で、こんな台風の日に傘もささずに外を歩いているんですか?」
目の前の女性は少しだけはにかんだ。
「逆にあなたは何で歩いているんですか?」
 彼女はそのはにかんだ表情で僕に尋ねた。
「僕は……去年偶然台風の日にあなたを見かけたから、あなたにもう一度会いたくて……」
「私も同じです」
「え?」
「私も、2年前、台風の日にある男の人に一目惚れをしたんです。その人は傘もささずに雨の中を歩いていたの。その人にもう一度会いたくて、だから私は彼の真似をしてこうやって傘もささずに歩いているの。もしかしたら彼が私に気付くんなじゃないかって。でもその人にはあの日以来会えていないんです。」
彼女がなぜ美しさく且つか弱いかが分かった気がした。
 
雨だか涙だかよく分からないものが目から溢れ出してきた。
台風の夜はまだまだ続くらしい。土砂降りの雨が辺りを打ちつけていた。

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