『拇指』

「溶けてしまいたい夜だってあるさ。」
そうつぶやこうとした親指は、ふと立ち止まって考え、テンキーの上をくるくるした後
[下書き]のボタンをタップした。
一日中動き回った月曜日の深夜などは、泥のように横たわり岩のように微動だにせず右手だけはオレンジ色のスマートホンを握りタイムラインを追いかけている。
ちっぽけな親指をこの世界に存在たらしめる方法が熱を持ったオレンジ色の小機械によってもたらされるデータのやりとりのみだと思うと、急に身体が宇宙に浮游している感覚を得た。
しかし実際には思考を巡らせ、小機械を用いて世界を見渡すことはできても、身体を六畳一間の安アパートの一室に据え置かれた寝台から起き上がらせることはできなかった。
親指の持ち主を物理的にがんじがらめにしているのが寝台であるとすれば、社会的にがんじがらめにしているのが大学であった。
今日の白昼の、じりりと暑い陽を浴びて葉を目一杯伸ばそうとするメタセコイアの木を思った。
メタセコイアの木が六本並んで生えたキャンパスを思った。
メタセコイアの並木の下を通って通学する若い男女を思った。
大学は講義を受ける学生を吸い込み、講義を受け終わった学生を吐き出す機関である。
親指の主は、排泄される学生であり、うら若き男女であり、メタセコイアの一葉でもあった。
いつもあくせくタイムラインを追いかけている親指も、大学にいる間はペンを握る仕事に従事した。
オレンジ色の小機械の前ではあんなに饒舌な親指も、ペンを握るときには沈黙を貫いた。ペンはあらゆる何者よりも強い力で親指の行動を束縛した。
 ペンを握るとき、親指の徒然なる豊かな思想は弾き出され、捨象された。
 追い出された親指の思考は、メタセコイアの遥か頭上を行き過ぎ、安アパートの六畳間の寝台に戻ってきた。それとほぼ同時に、雨が降り出した。
ザーザーザー。窓を打ち鳴らす雨音は、親指と親指の主を取り巻く呪縛を断ち切るように響いた。「しめた」と、親指の主は小機械を寝台の外に投げ捨て、眠りについてしまった。
 徒然なる思考を発揮させる術を失くした親指は、主を眠らせてもなお飽き足らず、くねくねと動き回っているのだった。

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