『太陽の感染症』

その症状がニュースで取り沙汰され始めたたのは、2020年のバレンタインのころだった。
そのウイルスに感染すると、肺炎を起こし、呼吸困難、最悪の場合死に至る。さらには感染力も強いという報道がなされ、国中が混乱に陥っていた。マスクだけが飛ぶように売れ、他の物品の消費は鈍った。
しかし、感染しても、症状が出ない者も半数以上いた。政府は手を拱いた。横浜港に停泊しているクルーズ船の乗客の集団感染の比率から言って、感染力は強いが病状が重くなる場合は少ないということが判明しつつあったのである。
しかし、政府は手を拱いていた。国民は戸惑っていた。感染力と症状の強さの因果関係は依然として、不明瞭であり、従来の感染症と同程度の予防策しか提示できずにいた。
国民は戸惑っていた。ある医者はマスクの着用の励行を促し、またある医者は感染者がマスクをつけるべきであり、予防策にはならないと声高に言い放った。
そして、クルーズ船の集団感染から一週間ほど経つと、とうとう社会学者までもが、貧困国での例を引き合いに出し、人間は予防にお金を掛けず、感染症が身近にならないと予防策をとり始めないということを盛んに述べるようになった。それは保険会社がさほど儲かっていないのと同じ理屈であり、何を今更。と思う者もあるのであった。
さらには陰謀論者によって、当該のウイルスが生物兵器ではないかという説までもが提唱され始めた。感染症の発生源である国のとある都市にある研究施設において、件のウイルスと同種の病原体の研究が行われていたというのである。
 当然ながら関係者は否定した。感染症を拡大させる引鉄を引くことは罪に当たるのか。今度はその論争で世界中の話題が持ち切りになった。
 次いで統計学者が分析を始めた。やがて明らかになったのは、特定の団体に寄付金をしている額面に応じて、罹患者及び重篤な症状が出る者が優位に少ないという事実であった。
 先述の事実が公になると、特定の団体への入団を求める者が後を絶たなくなった。しかし、特定の団体は宗教団体であったため、入団を拒むものも当然いた。しかし、統計学の力が働き、入団を拒む者はやがてウイルスに罹患し、隔離病棟に入院させられるように運命づけられたのであった。
 その宗教団体に入団する以外の予防策が待たれた。ついに宗教学者が分析を始めた。そうして明らかになったのは、精神レベルの高い者は感染症の予防を怠らないという厳然たる事実であった。
 当然のごとく、精神レベルの測定方法が人々に求められた。精神レベルの測定を行うためには、しっかりとした対話が必要であると、宗教団体の代表は発言した。とうとうその宗教団体への入団希望者があとを絶たなくなった。
 同じころ、とある会社でも感染者が少ないという事実が明らかになり、その会社への入社希望者が殺到した。その会社は先進的な技術を持つ企業であるため、もとより採用基準には厳しく、今回の感染症の拡大を理由に中途採用の中止を発表した。
 その間にも感染は拡大し、海外では死亡者もいくらか出始めた。しかし、国内での死亡者は出ておらず、重篤な症状が出る確率も低いことが分かった。マスクを着けずに外出をする者が出始めた。
 そして、重大な事件が起こっていた。重大な事件の裁判が行われていた。被告人は「障碍者は精神レベルが低いので殺してもいい」と発言した。当然のごとく死刑は求刑された。しかし、執行は待たずして果たされた。この被告人が、死刑の執行を待たずして、当該のウイルスに感染し、死亡したのである。ざまあみろ。というのが大方の意見であった。こんな人間に、死刑になって可哀相と思う人間はいなかった。はずだったが、前述の宗教団体の会員だけは、来世はいい人間に生まれてきますように、と祈った。先進的な企業は、脳波をコントロールして被疑者を更生させるシステムを開発中であるという声明を出した。
 哲学者は、生命の尊厳がどこにあるのか?という疑問について常に考えていた。
 文学者は既にそれに気づいており、それを早く作品に残したいと願い、そして書き記した。
 そこに厳然と横たわっていたのは、

“自分と周囲の人は精神レベルが高いので絶対に感染しない”

という宗教学者が到達したのとまったく同様の事実に過ぎなかった。
そして文学者は、精神レベルが高い友人同士で会合を開き、毎夜、精神レベルの高い者から襲撃されていくゲームに興じるのであった。

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