『初めての労働』

「仕事の時間だ」
 目の前の男を僕は見つめる。全く見たことのない顔だ。
「ここって……」
「俺たちは仮想世界で過ごしてきた。AIが馬鹿になっちまってな。仕事を放棄してしまったんだ。俺目を覚ました者から仕事を割り当てる。君はボタン係だな」
「仕事なんてしたことないですけど」
「AIが動かない今、働かなくてはいけない。今日からあそこが職場だ」
 男が示す先には、ガラス張りの部屋があった。
「来い」
 僕は男に手を引かれ、部屋の中に連れて行かれた。
 中は広く、仕切りのある机が所狭しと並べられていた。椅子に座っている人間たちは顕微鏡のようなものを覗きながらボタンを押している。 
「あれを見ろ」
 一番奥にはひときわ大きな机が置いてあり、体格の良い男性が座っていた。彼の席だけボタンではなく、レバーが置かれている。
「彼は寺田さんだ。バーを操作することを許されている。あの繊細な動きは今のところ彼にしかできない」
 確かに寺田さんの手は細かくレバーを操作しているように見えた。
「何を見ているのですか」
「それは、リーダーにならないとわからない。スコープを覗くと誰もが熱中してしまう力を持っているみたいなんだ。俺もいつかあそこに座ってみたいよ」
 男はそう言って短く笑った。
「まぁ、まずはボタンを覚えることだな」
 僕は空いている席に案内され、顕微鏡のような物を覗けと指示を受けた。
 淡いピンク色の背景に、一本の黒い線が引かれていた。右上にはスコア〇と表示されている。しばらくすると、青い点が右から左へと流れていく。
「黒い線上に青い点が来たときに、ボタンを押すんだ」
 男の説明通り、僕はボタンを押す。すると、青い点は消え、右上のスコアが〇から一へと変化した。
「後はそれを続けるんだ。わかったな。タイミングが合えばスコアはもっと増えていくぜ」
 わかったようなわからないような……。男の足音を聞きながら、僕はまたボタンを押した。

 しばらくして、部屋内にサイレンが響いた。
「スコアが一〇〇〇を超えた者から帰ってよろしい」
 スコアはまだ三〇〇を少し超えたくらいだ。青い点は連続して来るときもあれば時間を置いて来るときもあるため、思ったように仕事が終わらない。
 僕も早く仕事を終えてしまいたい。
 周りの人間が少なくなってくると、青い点が次々と現れるようになってきた。それに伴って点数もどんどん加点されていく。
 五〇〇、六〇〇、七〇〇……。
 スコア一〇〇〇は、思ったよりもすぐ達成することができた。
「よし、おつかれ」
 肩を叩かれ、僕は顔を上げた。首が痛い。
 説明係の男だ。
「食堂はここを出てまっすぐのところにある。仕事は終わりだ。食事に行ってこい。白米はあまり美味しくないが、他はうまい」
 男は細かい注意点を説明し、満足げな顔で部屋を出ていった。

 食事は日替わり定食にした。確かに、白米はなんだか苦味があって美味しくない。
 隣に女性が腰を下ろした。
「ねぇ、新人さんでしょ」
 ふわりと香水の香りがする。
「そうです。あなたは?」
「山下よ。よろしく。この仕事、あなたはどう思う?」
「楽しいとは思えませんでした」
「そうだよね。みんなスコアを争っているの。レバーを動かす権利を求めてね」
「レバーには魅力があるんでしょうか」
「わからない。誰がレバーを握るかで怪我人が出たこともあるの」
「僕にはわからないです」
「それが普通なんだと思う。でも段々と人々は変わっていくの。仕事が大好きになって、目も虚ろ。休日なんて言葉は忘れさられ、毎日同じ仕事を繰り返すの」
「誰にだって休暇は必要ですよ」
「そう。その気持ち、忘れちゃだめ。何のために生きているのかよく考えること。どうしても辛くなったら、仕事なんて全て放って遊びに行けばいいの」
 山下さんは、僕に微笑んだ。
「私ね、反抗してみようと思ってるの。ボタンを押さなかったらどうなるか気にならない?」
「ちょっとだけ。でも、大丈夫なんでしょうか」
「私が証明してみせる。それで何もなかったらあんな面倒なことしなくてもいいでしょ」
「まあ、そうですけど……」
 謎だらけのこの世界で、山下さんは行動を起こそうとしていた。
「ここの白米食べたことないの。まずいって噂だから」
「それが正解かもしれないですね」
 会話しながらも、僕は自然と白米を口に入れている。
「じゃあ。また会いましょう」
 山下さんは去っていった。

 次の日。七時五十分にはガラス張りの部屋に戻った。
「おはよう」
 山下さんだった。
「おはようございます」
 山下さんは、僕の隣に座った。
「あれ、隣だったんですか」
「知らなかったの? だから食堂でも話したのに」
「ああ、すみません」
「まぁ、ずっとスコープ覗いてたもんね」
 うふふと山下さんは笑った。
「工事が入ったから、いつもより青い点が多いって」
「工事?」
「定期的に入るの。その翌日は決まって青い点が増える。あれを実行するには良い日かもしれない」
「本当にやるんですね」
「こんな仕事したくないから」
 サイレンが鳴る。僕たちは一斉にレンズの先へと視線を移す。
 開始数分で、昨日より明らかに青い点が多くなっていることがわかる。僕は間違えないように慎重にボタンを押した。スコアがだんだんと伸びてくる。それはなんだか、快感だ。
 スコアが上がるに連れて、自分がすごい人間だというような気がしてくる。仮想世界では手に入れることのできなかった感覚だ。
 誰かに認めてもらいたい。
 青い点は速度を増す。僕は取り憑かれたようにボタンを押し続けた。
 休憩の頃には、僕のスコアはすでに二〇〇〇を大きく超えていた。この胸の高鳴り。気持ちがいい。
「歴代最高スコアだ。喜べ」
 説明係の男が、いつの間にか僕の隣に座っていた。
「本当ですか。嬉しいです」
「寺田さんの次はお前さんかもしれないなぁ……」
 説明係の男は立ち上がり、「がんばれよ」と言うと、出口へ歩き出した。誰も居なくなった席を見て、何かを忘れているような気がしたが、サイレンとともにその感情は消えていった。

 寺田さんが倒れたのは、それから二ヶ月後のことだった。僕は毎日のように高スコアを叩き出し、皆から一目置かれる存在になっていた。
 次のレバー係は、もちろん僕だ。
 寺田さんが座っていた席に付き深呼吸をした。
 それから、ゆっくりとスコープを覗く。
 映し出されたのは、この部屋を上から撮っているような映像だった。部屋の様々な所から、僕の体に向けて青い点が照射されている。
 青い点の元にカメラはズームしていく。
 それが銃口だとわかった時、レバーを握った僕の右手はガタガタと震えだした。レバーを動かすと、青い点は部屋中に散りばり、ボタンを押している人間たちに向けられた。ボタンが押されると、青い点はまた僕の背中に戻ってくる。その繰り返しだ。
「何のために生きているのかよく考えること。どうしても辛くなったら、仕事なんて全て放って遊びに行けばいいの」
 山下さんの声を思い出す。
 あいつらの遊びは、まだまだ終わりそうになかった。

労働する自分自身を想起させられハッとしました。それと同時に物語の中にすごく引き寄せられました。読み応えがあってとても面白かったです。