『知らなかった男』

「自殺なんてのは簡単な仕組みさ。誰にでもあるような募る不幸、それと何でも良い、ある種の衝動。その歯車が合うだけで良いんだ。」
悲劇の物語もそこには無い。誰かがそう言っていたのを覚えている。

午前二時。秒針は鳴る。時が刻むのは自身だったのだろうか。そう思える程にその音は堪える。一秒また一秒と心蔵のあたりが腫れる感じがする。なあに、珍しいことではない。自分に言い聞かす。
ーーーその日は朝から晴れていた。都合良く自分の心を反映したりなんかはしない。この世界には、想像し切れない程、人があまりに生きているのだから。そう思った。全く、その事実に気付いたのは最近ではないが。
「しっかし、今日は最悪の日だ。」
自分でも何故だか分からないが声に出した。街の歩道。私は当然注目を浴びた。元々人に見られるのを嫌う私だが、今日はもうどうでも良かった。一週間前、付き合っていた人が死んだ。まあいろんなことをしてくれた。何も魅力のない私と一緒にいた。簡単なことではなかっただろう。何が目的なのかは分からなかったが、彼女はそれをこなし切れなかった。私の大学卒業が間近に迫った日の夜の出来事だった。ふと家を出たあともう帰ることはなかった。橋から川に飛び降りたのだ。直接の死因は、川底の石に頭を打った事らしい。その人生に似合ったチンケな死に方だ。ただ、境遇を思ってみると少し同情もしてしまう。まあ、恋人の死と言ってもこの程度だ。しかし、私はいつも通りでは無くなっていた。何か違和感があるのだ。心にもやがかった。という分かりやすいものでもない、小さな違和感。きっと私は彼女を愛していなかっただろうし、彼女も私を愛していなかっただろう。だから、私に異変が起こる道理はない。「あいつもなんで俺と一緒に居たんだろう。愛しても居ない人と一緒に暮すなんて理解できない。」また声に出した。今日は大学の卒業式に行かないといけない。
ーーー午前二時半を時計が指す。私は、ベランダから街を見下ろしていた。この建物にそれぞれ生活があるのだろう。気の遠くなるような話だ。私には関係のない事のように思えた。そして体は、何故かベランダから乗り出していた。何故かこんな時になって彼女が死んだ日を思い出す。そう言えばあの日は些細な喧嘩をしたっけ。何故か自然と笑みが溢れる。しかし、それは私を引き留める事はなく、むしろ背中を押した。何故か少しの涙が、頬を伝う。風で乾いていく。少し冷たく感じる。「何故か。」 思い返せば分からない事だらけだった。私が今から落ちて行く理由も、彼女が死んだ理由も分からないまま、終わる。
 一瞬の浮遊感のあと、意識は失われた。

      不幸にも歯車が合った、小市民の話

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。