『フラッシュ』

私には少し先の未来が見えることがある。

予知夢というほど華麗なものではない。ただしそれは紛れもない未来の光景である。見えるというよりは、正確には頭の中に流れ込むようなフラッシュの感覚だろうか。一先ずそれをフラッシュと名付けておこう。それは意図して読むことは出来ない。何気ない日常生活の中で、フラッシュは不意に訪れる。そこに映っているのは数分先か、あるいは数時間先の決して遠くない私自身の姿である。それも一瞬脳に焼き付く程度であり、詳細まではわからない。笑っている時もあれば、泣いている時もある。大声で何かを喚いているような時もあれば、苦痛に顔を歪めていることもあった。30年ちょっと生きてきた中で、体験したのは10回程度であろうか。子供の頃はただただ不思議な感覚だったが、大人になってからは最早慣れてしまった。ある意味諦めが付いたとも言えようか。なにせ一度見た自分の姿は、必ず自分にやってくる。どんなに抗っても逃がれようがない。そのことを受け入れ始めたのである。

良いことと悪いことは大体半々ぐらいであった。数時間後に返却されるテストの点数、これから行うギャンブルの勝敗、何に対するリアクションなのかは、フラッシュが浮かんだ時点でなんとなく想像できるものが多かった。学生時代、ある程度慣れてきた頃には、割と得意な気分でさえあった。とは言っても中には全く予期せぬアクシデントもある。軽症で済んだとは言え、フラッシュの10分後に車に引かれた際には、事故に遭遇した被害者の顔付きとはこうも悲惨であったのかと打撲跡を抑えながら妙に納得したものだった。

そして今日、久し振りのフラッシュが起きた...ただ今回はいつもとは違っていた。浮かんだのは確かに自分自身の姿だ。それも今まで以上に鮮明にである。ただ、問題なのは肝心の私の表情である。これまではフラッシュに映る自分の顔を見れば、良い知らせなのか悪い知らせなのかは何となくわかった。しかし、今回私の顔は驚くほどに全くの無表情だったのだ。それは虚とも放心状態とも違う、ある意味完全な無表情と言って良いだろう。仮に何も考えずにぼうっとしている時でさえ、何らかの感情は顔に出る。少なくとも普段の私はそうである。それは最早私の知っている私の顔ではなく、喜怒哀楽という感情そのものが完全に消え去ったような、不自然な顔だったのだ。一瞬のフラッシュとは言え、この不自然な顔はやけに強く脳裏に残った。一体どんな未来に出会したらこのような顔になるのか、それが全くイメージ出来なかったのである。

会社の休憩時間中での一瞬の出来事であった...正確にはいつものデスクでせっせと昼食を済ませ、食べ終わった後のコンビニの弁当箱を袋に詰めて、部署の隅にあるゴミ箱へ向かおうと立ち上がったまさにその時であった。フラッシュが起こるのはこういうオフモードの時が多かった。さて、今回の未来はいつやってくるのか?早ければ休憩時間中に、遅くても経験上は夕方までにはやってくるだろう。しかし、一体私の身に何が起こるというのだろうか?その日はいつものように同僚達と会話することもなく、社内の廊下を歩きながらひたすら問い続けた。顔の原因に関してあれこれ考えだすとキリが無かったが、少なくとも休憩時間が終わるまでに、説得力のある仮説は1つも見付けられなかった。

確実に言えることは、まだその時が来ていないということだけである。なぜならばフラッシュが起きてからこの数分間、様々な仮説を頭の中で休むことなく巡らせていたために、私の顔はまさに思考を煮詰めたような険しい表情を絶えず保持していたからである。できればもっと考えたいが、時間が来てしまったなら仕方ない。さて、勤務に戻るか...私は再び部署に戻り自身のデスクの席に腰掛けた。今日は内勤だから定時までデスクに釘付けだ。一瞬身体が軽くなったようにも感じたが、思考モードは中断出来そうにはなかった。これでは仕事にならないな。

不思議と恐怖はなかった。むしろ興味深くて堪らなかった。これから今までには感じたこともないような、何か極めて非日常なことが起こる予感がしていたのだ。年甲斐なくとはこういう心持ちを言うのだろうか。しかし、どういうわけか意識は遠のいていった。

「○○君...おい、○○君!」
デスクに戻ってから何十分...いや、もしかしたら既に1時間以上は経過していただろうか。不意に私を呼ぶ声が聞こえる。聞き慣れた部長の声である。この口調、何かミスでもやらかしたのか?私は呼ばれた通りすぐ近くの部長のデスクに向かう。営業歴が長いだけに、いつもは上司に名前を呼ばれれば反射的に返事をしてしまう私だが、なぜかこの時に限って声は出なかった。そのまま部長の隣まで...ん?やけに速く動けるぞ。

「○○君、聞こえないのかね?」
部長が再び私の名を叫ぶ。社内が騒然としている。おかしい、私は確かに部長の眼前にいる。しかし目前の部長はなぜか目前ではなく、私のデスクに向かって繰り返し叫んでいる。

「...」

あれ?声が出ない。何も言葉が発せられない。部長、私はここにおります!.....しかし部長は何度も私の名を呼ぶ。最早透明人間にでもなってしまったとでもいうのだろうか。見渡せば社内も一層騒ついている。他の社員達も私の存在に気付く気配がない。どうやら部署にいる誰にも私は映っていないようである。私はここにいないとでもいうのだろうか?せめて自分の身体を確認したいのだが、下を見てもただ床があるだけである。そして手や足もどこにも見えない。もう何が何だかわからなくなっていた。そして私のデスクを目にした時、ようやくこの異変の意味に気付いた。同時にフラッシュの光景が飛び込んできたのである。

私のデスクに社員は密集していた。部長もようやく異変に気付き、立ち上がって駆け寄っていく。私は自分の席に座っていた。まさに目線は空(くう)を見ている。私は私自身に近付き私自身の顔を覗き込んだ。フラッシュの通りの顔付きで瞬きすらせずにフリーズしている。仲の良い同僚が私の名前を呼びながら、だらんとした私の身体を揺する。みんな困惑している。まあ無理もない。今まで普通に活動していた人間が急に目を見開いたままで全く動かなくなったのである。恐らく部長が何かの用件で私の名を呼んだのがきっかけだったのだろう。かくいう私自身も今の今まで全く気付いていなかったのだ。道理で着席してから意識が急に曖昧になったわけだ。休憩時間が終わり、席に座ったまさにあのタイミングだったのだろう.....私の魂が抜けたのは。

やれ、心臓は動いているだの救急車を呼べだのガヤガヤと声が聞こえる。いや、今の魂だけの私には耳や目がないので、聞こえるとか見えるという感覚表現は適切ではないかもしれない。それでも私には彼らの声といい姿といい、周りの状況が明瞭に感じ取れた。私はどうすれば良いのか。そもそもこの状態で果たして何が出来るというのだろうか。極めて不可思議な状況にも関わらず、魂だけの私は妙に落ち着いていた。私の身体は仲間達に激しく揺さぶられているが、顔は相変わらず眉1つ動かずに無表情のままである。その視線の先で魂の私にはふとこんな思考が宿った。

私は私の中に帰るべきなのだろうか?

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