『破者』

 男は風船を割ることを生業としていた。割るべしと定められた風船が彼の部屋へと運ばれてくるのだ。何百、何千といった莫大な数の風船を、男は日々淡々と愛用の針を用いて破裂させていた。
 珍しくも男は、一つの風船を前にして躊躇っていた。
 左手で掴んでいるそれは、確かに風船であった。男が自身の親指でその表面をキュッとなぞれば、ゴム特有の摩擦感が彼の手に伝わってきた。しかし。
 この風船には、間違いなく空気以外の何かが込められている。
 男がそう推測をするに十分なほどの重さが、その風船にはあった。見た目にそぐわぬ、他の風船にはない重量感。意識すればするほどに、彼の左手にずっしりとしたその重みがのしかかってくるようであった。
 まじまじと風船を見つめる。ゴムでできた、丸い風船。やけにつやつやとした表面からは、その中身を窺うことはできない。青い風船。傾けてみれば緑にも紫にも感じられる。まるで不変。しかし風船は変わらずそこに存在していた。
 男はこれまでいくつもの風船を割ってきたが、このような風船を見るのは実に初めてだった。得体の知れない、不気味な、美しい風船。小さなその風船は男の左の掌にすっぽりと収まっている。にも拘わらず、ぼうっと浮かぶ何かの影に、男は今にも取り込まれそうであった。
 風船を割ったその先に待っているものは、何であろうか。何かが溢れ出てくるのかもしれない。何かが飛散するのかもしれない。見れば見るほど鈍く煌めくその風船を、男は次第に恐れるようになった。
 見なかったことにしてしまおう。割らなければならない風船は、他にも沢山あるのだ。男は部屋の窓を開け、風船を外へ放り投げることを決めた。ガタつく窓に手をかけて、最後にチラと風船を見る。風船と目が合う。嘘だ。風船に目などない。なのに。
 ――逃げ出すのか? 恐れをなしたか。この臆病者。
 風船の語りかけに、男は激高した。逃避。臆病。それらは彼が最も忌み嫌う言葉であった。
 良いだろう。割ってしまおう。俺はこれまでいくつもの風船を割ってきたんだ。お前なんて、その中の一つにすぎない!
 右手に持った針を握り直す。パンパンに張り詰めた洋梨形の、一等膨らんだ部分に男は針を突き立てた。依然迷いはあった。だが迷いや躊躇を振り切るほどの怒りと羞恥が男の中に生まれていた。
 それに、男は気付いていたのだ。これこそが、今この場で男に割られることこそが、この風船の望みなのだと。男は風船に魅せられていた。この風船の意思であるならば、自分にできることならば、なんだって叶えてやりたい気持ちになっていた。
 針がゴムに突き刺さる。薄いゴムを貫通して、そこに小さな穴が開いた。細い針で小さな風船が破壊されていく。割られた風船にはもう中の世界を保つことは不可能である。風船に込められた中身が、外の世界へとあふれ出ていく。
 パァン!
 聞きなれた破裂音が部屋に響く。それは一瞬のことだった。瞬きほどの一瞬の後、男の手の中には、風船であったはずのゴムの残骸だけがあった。中身の抜けて収縮しきったそれは、黒ずんだ濃紺だった。先ほどまであったはずの謎めいた色味も鈍い輝きも、とっくに失せてしまっていた。
 ただのゴムがそこに残っていた。

令和2年3月8日

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