『それはこの世界で一番簡単な奇跡』

 例えば、私がシンデレラだとすれば、ガラスの靴をもらって、お城に行けばいい。人魚姫なら、嵐の夜に、船から落ちた男性を助ければいい。白雪姫なら、森で小人の住む小屋を見つければいいし、ラプンツェルに至っては塔からの脱出を諦めなければ良い。

 そんな簡単なことなのに、「運命の人」に出会うのは、どうしてこうも難しいことなのだろう。電車に寄り添うように、背を預け、ぼんやりと考える。
 例えば、だ。シンデレラやラプンツェルのように、「私の物語」があるとしよう。じゃあどんな物語なのか、と。学生時代の友人。今更? 会社の同僚? ありえない。上司なんて、不倫だからアウトだし、それ以前にときめかないから論外。出会い系? は、前にやってみたけど全然向いてなかった。むしろストレス。ナンパ? いないよそんなもの。絶滅危惧種でしょ大人しく絶滅していろ。
 私には、どんな物語が待ち受けているのか。御伽噺みたいに、わかっていれば良いのに。いや、御伽噺ほど劇的じゃなくて良いから、数手先の未来だけでも、教えてくれたら良いのに。そんなことを願いながらも、それがわかったらいろんな人が苦労しないよと、自重気味に笑った。
 だったら、何が良いのか。寄り掛かったドアの反対側の先の風景を、ぼんやりと眺めながら考えた。景色が、とてつもないスピードで流れていく、見慣れた景色だ。この景色がだんだん速度を落として、少しずつ緩やかに変わっていく。次の駅が近いことを、アナウンスが知らせていた。

 例えば次の駅、電車に乗り込んできた黒いリュックの男性と、私は恋に落ちるとする。

 案外、そんなもんなのかもしれない。私の物語だし、私の生活の延長線にあって然るべきだろう。別に白雪姫みたいに、親から殺意なんて向けられたいわけじゃないし。人命救助は人魚姫だからできたことで、そう言うドキドキもほしいわけじゃない。私の恋が、したいだけ。

 電車がゆっくりと速度を落とし、ガタリと大きな振動の後に止まった。ドアが開いて、気怠そうにバラバラと人が乗り降りする。ええと、黒いリュックの、男性は、2人。あー、ノーカンでお願いしたい。
 1人は前髪が脳天まで後退したおじさん。ビール腹がチャーミング、なんて言えるわけもない。ロマンスのロの字も感じられない。私、年相応に恋愛したいので。
 もう1人は、清潔感もあって、顔もいい。年齢も、30代前半といったところだろうか。シワ埃ひとつないスーツも好感が持てる。既婚者じゃなければ。さっきスマホをいじる左手の薬指に、きらりとひかる物が見えた。さっきも考えたことだが、不倫は論外だ。却下却下。

 結局のところ、そう簡単にはいかないのだ。そもそも一朝一夕でどうにかなるのであれば、こんなにうだうだと悩んでいない。誰でもよければ苦労はしてないし、そもそも優良物件には既にお相手がいる。世の常だ。重いため息を、欠伸と共に吐き出す。
 もう直ぐ次の駅に着く。私の職場の最寄駅。また今日も一日、仕事をして帰るだけの時間を過ごす。こうやって老いていくんだな。もう既に諦めの境地だ。
 電車は速度を落とした後、ガタリと大きく揺れて止まった。衝撃にバランスを崩して、1、2歩前にステップを踏んでしまった。先ほどの駅でもそうだったが、ブレーキが下手すぎやしないだろうか。まあ、目的地に着けばなんでも良いのだけれど。
 扉が開き、自然発生した人の流れに身を任せる。気持ちは億劫だろうと、足は勝手に真っ直ぐ進むものだなと、人ごとのように考えていた。

「あの、すみません」
 肩を叩かれて、思わず振り返る。ぼんやりとして居たものだから、きっとひどい顔をして居ただろう。この時の自分に言ってやりたい。
 出会いは、私の生活の延長線上にあるものだと。
「落としましたよ」と言って差し出された、赤い革のパスケースを握り、「ありがとうございます」と頭を下げたのち、相手の顔を見た。

 恋に落ちる、なんてありふれた奇跡は、本当に突然訪れる、厄介なものだ。

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