『埼玉県境踏破記録 ~プロローグ はじまりは父だった~』

運動は好き、でも学年で一番背が低く、ガリガリ体型、しかも色白な気の弱い存在で育ってきた中学生の照(あきら)でした。親の遺伝もあるが、3つ上の兄や1つ下の妹はガッチリとしていて、兄は高校でラグビー部に入り、後の大学時代では武道の国土舘で授業なのに柔道の黒帯を取得させられていた。妹は背は低いものの、プール以外の運動は学年トップクラス、遺伝子のイタズラだと思うしかなかった。照は野球のベースランニングのような20m未満の超短距離走は得意だったが、普通の短距離走は苦手で50mのベスト記録は何と8.0秒、遅すぎです。長距離の持久走大会は中の上に食い込むレベルだったので、比較的持久力には苦手意識はなかった。体脂肪がとにかく低いので、プールは低体温になるし、どうやっても沈むので疲れるし、嫌いだった。逆に得意な運動はと言えば、器械体操(床、跳び箱、鉄棒)、ドッヂボールは横投げだったけど、友達曰く『どこに投げるか分からない』と言われる技、ノールックで右や左に投げ分けがあったのと、キャッチングも得意ではあった。2学年上にいた陸上学生記録を持つ超人の豪速球もキャッチしたこともあった。1回目は偶然取れてしまって、2回目は地面スレスレを投げ込まれ見事に突き指退場を食らったのは逆に自慢話。後にその人は競輪の年間賞金王にも輝いた。
ここまで説明すれば、どんだけ運動に向かない人間なのかは理解いただけたかな、照本人も運動は苦手なものの、男が文化部に入ったら負けというイメージがあって、中学ではバレー部に入る。その理由が少年ソフトボールで世話になった背の低い先輩でもレギュラー入りして活躍していたこと、自分にも出来るかなって思ってしまったのが間違いでした。照が40歳になってから気付くことではあるが、短指症と言われる1000人に1人の軽い奇形で、親指が太くて短いのである。これでは普通にトスが上げられないのに、さらに腕の筋肉が無いもんだから、全然と言っていい程ボールが上がらない。3年になってもレギュラーは取れず、運動部はもう懲り懲りと、高校では化学部ならぬ理科部に入る。理科部は、化学だけでなく、季節ごとに泊まり込みで天体観察、卓球のボールに回転を掛けて変化球の研究、トランプの確率論、体育祭では炎天下からの避難場所にもなるという何もしていない部活でした。
そんなモヤシ人間に対して、父親は趣味の登山に照と兄を無謀にも連れ出すのでありました。その登山というのがハイキングではなくガチのレベルで、軽いのは筑波山があったが、基本的に8時間コースだった。
埼玉県の春我部市であったため、そう簡単には登山に出掛けられなかったのが幸いし、年に2回に収まっていたことは救いであった。埼玉の百名山である、雲取山や両神山、二百名山の武甲山、ロッククライミングの名所である小鹿野二子山は記憶に残っている。雲取山は三峰コース、両神山は今は廃道になった旧白井差コース、武甲山は表参道から武川岳を周回するコース、小鹿野二子山は、東岳と西岳を登って、どこを降りたのか記憶にない。
基本的に山とコースの選定と日程は父の独断で決まって、金曜日の夜8時頃にワンボックスカーに三人乗り込んで出発し、登山口で車中泊する。日の出時刻前に起床、食事して明るくなってから歩き出す。父は富士山の南側、沼津の山で育ったため、足腰は家系的に非常に強く、親戚を見ても散歩気分で登山をしてしまう程だった。中には初日の出富士登山を7年連続でやった伯父もいる。そんな環境で育ったので、装備や知識は足りていた、登山地図だけでなく工程表も作って計画性もあった。足りないのは朝食や行動食の栄養であり、朝は5個入りのヤマザキあんぱん、お昼はネギと魚肉ソーセージ入りのインスタント袋ラーメンだった。照が登山を本格的に始めて半年後にシャリバテ(食事の栄養が足りずバテて足が動かなくなること)を知り、行動前の食事と昼食はしっかり食べるべきって身に付けたが、父は朝はパン、昼はラーメンが定番で往年年齢の影響もあってか、全く照とペースが合わなくなっていた。我流を貫く頑固なところが直れば、もっと人付き合いも上手く出来たのだろうけどっていうのは照にも言えるのかもしれない。あとは『何事も1人でやるのが苦手な性格なんだ』と、照が40歳になってから伯母から聞かされた時には納得しかなかった。人には単独で山に入るのは危険だ、何かあったら助けも呼べないぞと口酸っぱく聞かされていたが、本当の理由は違ったのであった。なお、『違った』を照は『違かった』と40歳まで言っていた、それが静岡弁だとは知らずに、自称文学好きの兄もそれを知らずに驚愕していたのは、生まれ育った環境が、埼玉東部弁(茨城弁に近い)に静岡弁と北海道弁が添加されていたもので、標準語だと思い込んでいたからである。
照は大学に入ってもサークルには入らず、勉学に励んだ、それとコンビニでのバイトしかやっていなかった。運動はほぼゼロだったが、それでも年に1度は登山に連れ出された、県外には出ることなく、ほぼ秩父地方であった。今思うと、もっと他にも良い山はあったはずなのにと後悔しかない、興味はないものの、一緒に行こうぜーとしつこく誘われると、ウンと言うまで誘い続ける父がいた。
社会人になって、父も登山に誘うことはなくなった。と言うのも照は父の超過干渉に嫌気を指していて、毎晩ケンカしていたからだ。父に『誰のお陰で大学を出られたんだ?1人では何も出来ないのに、脛噛りめ』と罵られ、遂に独り暮らしを決意する。もう25歳であり、3つ上の兄や1つ下の妹だけでなく、母方の祖父母が痴呆のため数年前から同居をしていた。母の負担を少しでも軽くして上げたい気持ちも少なからずあった。
独り暮らしを始めて、趣味のサボテンは250種類にも増やし、そろそろ彼女でもと探し始める。数人とお付き合いをしたがいずれも長続きはしなかった、女友達に話したら重いらしい。
会社の廊下を歩いていても何もない所で躓いたり、階段を上っていたら顧問のゴルフ好き70歳に軽やかに抜かされる。自分が70歳になる前に、二足歩行を諦めて匍匐前進していそうだなと危機感を覚えて、何か運動を始めなければ!となった。
だが、球技もランニングもジムも嫌、自分のペースで続けられるもの、『そうだ、山を歩こう!』そこから、趣味に登山が加わった。そして、登山に電車で行くのが初回でイヤになり、軽自動車だけど車も購入した。
埼玉の秩父地方と奥多摩をベースに山歩きをしていて、照は気付いてしまった。『埼玉県境踏破できたら面白いな』と。基本的に静かな山歩きが好きであるが、自然と物好きしか歩かないルートになる。つまり同行してくれる友達もいない。照はまさか本当に踏破出来るとは思っていなかった。
埼玉県境のうち山間部は130㎞にもなり、それを13回に分けて歩いた。全ての歩行距離はトータルで280㎞、行動時間はトータルで138時間にもなった。

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