『埼玉県境踏破記録 ~1 知らずに県境デビュー~ 』

父に連れて行かれた登山で県境を踏んだのは、雲取山と小鹿野二子山ではあるが、中学生の照にとっては、どちらも地理の知識はなく、本当に山に行くぞと車に乗ってしまっただけ。
雲取山は埼玉県と東京都と山梨県の3県に跨がっていて、東京都の最高峰でもあり人気の山である。
金曜日の夕方、父は早めに仕事を切り上げ帰宅すると、最後の荷造りを始めた。食事と風呂を済ませると、夜九時くらいか車で出掛けた。父の運転する車は、ワンボックスタイプの所謂、外壁塗装や電気工事屋さんが乗っているハイエースでもないので、パワーもない容量重視のマニュアル車である。埼玉県の東端にある春我部市から秩父までは直線で大宮を抜けていくのが早いと思われるが、熊谷経由の方が一般道では早く着いてしまう。一番初めに大宮ルートを使ってみたが、かなりの時間を要し、運転好きな父が疲れた顔を見せたのは初めてだった。
兄も含めて3人で車に揺られて、制限速度の9キロオーバーで安全運転をする父だったが、秩父の玄関口である寄居を抜けると、アクセルワークが急変する。スピードの取り締まりがされていなさそうな田舎道に景色が変わると、制限速度の20キロオーバーに加速、そしてコーナーを攻めまくる。先程説明したが、ワンボックスタイプなので、重心が高いのにタイヤを鳴らす勢いで、対向車線にはみ出しての、アウトインアウト。血が騒いでしまったようだ。
そして、三峰神社の駐車場に到着、辺りは真っ暗だが、駐車場の真ん中にはドリフトのタイヤ痕があり、暴走族が来ているんだ・・・と照は怯えていた。
父は晩酌を始めて、3列シートをフラットにして寝袋に入って川の字で寝ようとするが、今ここに暴走族が来たら・・・と良からぬことを想像してしまい、寝付きが悪かった。
浅い眠りで朝を迎えた。暴走族は来なかった。パンと茹でタマゴを食べていると、他にも登山客が数組到着し、挨拶を交わして入山して行った。照も先を急ぎたい気持ちはあったが、父はゆっくり食事の片付けと荷造りをしていた。兄と照はリュックサックを持っているが、中に入っているのは、自分の防寒着と飲み物、それと行動食代わりのおやつである。三峰ルートは駐車場が既に標高が高く、上り基調で歩き始めて一時間ほどで山頂とほぼ同じ高さに上がるが、そこから、アップダウンをひたすら繰り返し、山頂の手前で一旦ガツンと標高を下げてからの、最後の上りと見せ掛けて、雲取り山荘を過ぎてから、結構な上りで頂上となる、体力も必要だがメンタルも鍛えられるコースである。
三人は駐車場から歩き始めて30分も経たないうちに先行していた二人組に追い付いた。何やら様子がおかしいので『どうしました?』と尋ねると、『今、この杉木の上から小熊が降りてきた』という。照は何も分かっていないため、『熊?見たかったなぁ』と心で呟いた。父は黙っていた。
そこから、特にトラブルもなく、県境の芋ノ木ドッケに着き、雲取山頂までの初県境となった。山頂には12時に到着、やはりこのルートは時間がかかる。周りを見ると、大勢の人が昼食中であった。この人たちはどこから現れたのだ?と、その人たちが来る方向を見ると、1つ2つと小ピークの上を防火帯が続いていて、何人かの人影が見えていた。『えっ?!こんなに登山道が続いているの?』と照は声も発せずに驚いていた。
さぁ、帰るぞ。来た道を戻りますが、疲労で若干ペースが悪いが、地道に歩を進めるしかない。終盤の最高地点を通過して、あとは杉林の中を下るのみとなったが、日がだいぶ沈みかけていた。足元を見ると、何となく朝よりも道が荒れている。路肩が掘り起こされていると言った方が明確か。動物の足跡は見えなかったから、照は登山客が棒か何かで掘り起こしたのだろうかと考えていた。しかし、その地帯は朝小熊を目撃した所であることを父は関連付けていたに違いない。その時であった、父が青ざめた顔で『今、熊の鳴き声が聞こえた』と指で方向を指し示して呟いた。兄にも照にも聞き取ることは出来なかったが、滅多にビビらない父の顔を見て尋常じゃない状況であることを悟った。そして父は『お前ら、黙るな。騒げ!』という照にとっての忘れられない名言を残す。父と兄と照の三人は騒ぎながら駐車場まで休まず早歩きをして、ギリギリ日没前に下山完了した。
兄も照も足の筋力が限界であったにも関わらず、父はマニュアル車をいつもの調子で運転し、寄居手前の大渋滞でも安全運転を維持して、帰宅したのであった。
その翌週の土曜日、父は近所の床屋へ散髪に行ったのだ、待ち時間の時に埼玉新聞を読んでいた。ふと、ある記事に目が止まる。『三峰神社に小熊のっそり』タイトルだけならまだ、『あの小熊、神社に出没したのか』で済んだのだが、中身を読むと『神主さんが射殺した』と記されていた。ダブルの意味でショッキングな記事であった。
小鹿野二子山は雲取山から北方向に行った群馬県との県境にある。ちょうど近くを国道299号が通っていてアクセスは極端に悪くはない。雲取山でも秩父市街を抜けるため、ダムの建設中が見れた。浦山ダムと滝沢ダムである。浦山ダムは国道から見ると、建設中の投光器が眩しく見えた。滝沢ダムは看板だけだったかあまり記憶にない。
二子山は石灰岩で出来ていて、巨大な岩の塊にも見える。ちょこんと東岳と、ででんと西岳があり、西岳がクライミングスポットでもあり、ロープを使った上級者向けとなっている。どちらにも登ったと思うが、西岳の端が県境となっている。隣には叶山があるが、こちらは石灰の採石場となっていて、照が県境に気付いた時にはかなり削られて平らになった状態であった。
照が父と歩いた県境の山はこの2つではあるが、どちらも県境を意識したわけではない。
照が29歳にはなってから、健康&体力維持のために始めた登山がこんな出来事がきっかけになってしまったのである。

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