『埼玉県境踏破記録 ~2 居心地の良い空間~ 』

登山を趣味にしてから月に一座は登るようにしていて、県内だけではなく神奈川の丹沢山系、長野の蓼科山にも一人で出掛けた。丁度その年は高速道路が千円乗り放題だったため、会社の工場がある岩手まで夜中0時から車を走らせて、6時から岩手山に馬返しから登り、15時に焼き走りに下山して赴任中の同期にお願いして、回収して貰ったりもした。また、父親と2人で運転を交代しながら青森まで行って、岩木山と八甲田山を2泊4日(帰りは夜通し走った)で行ったこともあった。
その経験の中で照は、自然の中に身を置くことが、とても癒しであり、自分が計画したルートを歩き通すことの物凄い達成感を覚えた。
また無意識に県境を歩くことになったルートは、山梨県との県境である笠取山~甲武信ヶ岳である。ここを歩く目的は、源流ハンターであった。大河の最初の一滴を飲んでみたい、それだけだった。このルートは多摩川と富士川と荒川と千曲川(信濃川)の源流に寄ることができる。だが、距離もあるので小屋泊で二泊三日を計画した。
中福岡の住まいを未明3時に出発し、国道299号と140号を走って秩父を抜け、雁坂トンネルを通って西沢渓谷の駐車場に到着した。埼玉県側からは雁坂峠までのアクセスしかなく、周回ルートを作るには山梨県側に行く必要があった。
朝5時半、明るくなってきた空の下、荷造りを完了して歩き出す。一旦アスファルト道を下って亀田林道に入ると、すぐにダートに変わった。沢に沿った歩きやすい道だが、景色が退屈である。巨大なブリキの筒で整備されていて、楽に何度か沢を越えた。そのうち轍も無くなり、沢を徒渉しなくてはならない場所が出てきた。だいぶ標高を上げていたので水量はそんなにもなく、ドボンせずに越えられた。沢が細くなってくると、上に見えていた景色が変わって、稜線が見えてきた。一旦登りは終わり、小高い丘のような場所に向かう。そこは『小さな分水嶺』という荒川と多摩川と富士川の境を意味していた。荒川源流である笠取山が見えたが、急な山肌に直線的な登山道が付いている。多摩川源流の『水干』は笠取山の南面にあるが、とりあえず目の前の強敵に挑戦してみることにした。だが、実際に行くとすぐに息が上がって立ち止まってしまった。標高が2000m弱あるので空気が薄いのも影響している。何とか負けずに登頂して、奥にある分岐から水干に行くことにした。若干じめっとした空間であまり人も入らないのか足場が悪く注意しながら下降して、中腹を巻くルートに復帰して、水干に到着した。が、水滴が見えない季節は9月のシルバーウィークであったためか、枯れていた。案内板を読むとここから数十メートル下で伏流水が出ているとあったので降りてみたところ、確かに枯れ沢からいきなり水が涌き出ていた。一口飲むと、花崗岩でろ過されたためだろう雑味がなく美味しかった。第一チェックポイントクリア。
次は来た道を少し戻ってから、県境を西に進む。最初こそ急な登りはあるが、あとは比較的なだらかな樹林帯である。初日の宿は有人の雁坂小屋で、地図には稜線からショートカットのルートがある。分岐には案内もあったのでそちらへ進む、熊笹があったり、倒木があったり、少し歩きにくいため何となく不安になってきた。地図には10~15分と書いてあったが、だいぶ下ってきてもまだ小屋は見えてこないため、あまりの心細さに来た道を戻ることにした。日本三大峠である雁坂峠から小屋へ下る道は、先程の道より分かりやすく歩く人も多いようだったからだ。日本三大峠の他の2つは北アルプスの針ノ木峠と南アルプスの三伏峠である。こんな場所に三大峠の1つがあるなんてたぶん歩いた人しか知らないと思われる。
雁坂小屋の青い屋根と煙突からの煙が見えてきて、ホッと安心して力が抜けた。今日は8時間の行動時間だった。年齢は60歳はとうに過ぎていそうな細身の小屋番さんが出迎えてくれた。その日の小屋泊は照以外に、年配男性二人だけであった。沢水で冷やされたビールを飲みながら、小屋番と年配の二人と会話しながらゆったりとした時間を過ごす。山小屋経営は百名山の恩恵があるところはアルバイトを雇っても利益は十分に出るが、ここみたいな何にない場所ではボランティア同然だと話していたのが印象的だった。つまみには、鹿肉の保存食を出してくれて、脂はなくタンパクな味であるが照好みの味で箸が止まらなくなっていた。
ここの天気は小屋番の予想が見事に当たる。山の天気は変わりやすいというが、日没後すぐに風とガスは出て、夜中は晴れることが多く、見事な星空を観察することができる。明日の天気は?と聞くと、大丈夫と太鼓判を貰えた。
寝室は二段ベッドの12人部屋を三人で使った。9月でも標高が高いため夜中は結構寒く、二枚の毛布にくるまっても、小屋の隙間風が寒く感じた。ここは小屋泊でもここは食事の提供は無く、持参したアルファ米と缶詰を夕飯と朝食にした。栄養が足りないのは否めないが、体が細く体力に自信のない照には食材を担ぐことは出来なかった。
翌朝6時に小屋番にお礼を伝えてから出発。前日下ってきた雁坂峠まで登ってから、再び稜線を西に歩き出した。朝日が眩しいが、富士山や南アルプスまで遠望できる。景色がとてもよく、縞枯地帯でもあって、あちこちよそ見しながら歩ける楽しい場所だった、破風山までは。破風山の西に出た時、遥か足元に破風小屋が見えた。そこまで一気に下らなければいけない、メンタルが試されるコースである。でもそれは登りより下りの方がマシであって、下りも足場を確かめながらで余計なことを考える余裕はなく、気付くと破風小屋に到着。この小屋は心中事件のこともあり、他にもネットには遭難事故の記事があってあまり居心地の良くない雰囲気なので、チキンな照は素通りした。甲武信ヶ岳の前に木賊(とくさ)山があり、その西面は崩落気味で低木などにしがみつきながらスリップしないように一歩ずつ進み、気付けば甲武信小屋だった。まだ11時だったので、小屋主人の徳ちゃんはテラスでのんびりしていた。『まだ受付は始めないから、荷物を置いて山頂でも行っておいでよ』と言われ、散歩することにした。小屋から山頂まで10分もかからない、お昼時なのでランチする人が多いため、素通りして、更に西側に進んで鞍部で毛木平方面へ10分ほど下ると、千曲川源流がいきなり登場する。飲んでみると少し土臭い感じがした。小屋に戻るとまだ受付は開始していなかった。変わりに食堂が開放されて座れるようになっていた。売店のビールは無人でザルにお金を入れるだけ、釣りが欲しい場合は自分でという、完全信頼性のシステム。団体が寛ぐ場所に距離を開けてビールを一本。飲み終えて二本目を飲もうとした時、団体のオヤジが声をかけてくれた『君は学生か?』きっとビールを飲んでいるんだから20歳にはなっているんだよなという確認をしたかったのだろう。童顔な照は答えた、『いえ、社会人で30歳です』すると、オヤジが目をパチクリ。たぶん自分の息子と比較していたんだろう、あまり会話せずに終わった。そして、受付が始まり、寝床の割り当てで焦るのであった。

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。