『埼玉県境踏破記録 ~3 シュラフ(寝袋)持参で正解だった~ 』

甲武信小屋の宿泊受付が始まったので、宿泊費は朝夕の2食と寝具付きで7500円、昨日の素泊まり5000円だったから、安くも感じた。受付をすると、寝床が指定されるシステムのようだ。数字とAまたはBが割り当てられた、照は8-Bだった。AとBの意味するもの、通路の左右を示しているのかな?などと考えていると、従業員らしき人が『本日は大変混雑が予想されます、布団一枚に二人のご協力を・・・』言っている意味が照には分からなかったが、二階に上がってすぐに理解できた。布団の左右という意味だった。照は一人で来ているので、見知らぬ人と添い寝となる。『嘘だろ』言葉には出せなかった。さすがに隣人は女性ではなかった、事件発生するからね。添い寝相手は3人組のやや若い男性だった。寝床に居てもやることないけど、昨日と今日の疲れが出ていて横になる。山小屋の夕飯は早い時間に提供される。日没時間の5時過ぎてあったため、隣の三人組は山頂に行って夕日を見に行こうと言っていた。私も興味があったので、後を追って玄関を出た。『夕日を見に行くんですか?』照は三人組に聞くと、『そうだよ、一緒に行くかい?小屋の人に言っておかないと夕飯無くなるよ』と教えて貰い、一言伝えて、一緒に山頂まで行くと真西に見える御嶽山に夕日が落ちていくところだった。見に来て正解だった、少し三人組と仲良くなり写真も撮ったのでYahooメールのアドレスを伝えた。なお、後日そのメールアドレスが間違えていたことに気付く。真っ暗になった登山道を下って小屋に戻ると、『おっ、戻ってきたか』とカレーライスを提供してくれた。『ご飯の分量は?』と学生食堂みたいに聞いてきた『普通で』照は伝えて席に座ると、小屋の主『徳ちゃん』のビデオ放映会が始まった。甲武信ヶ岳の四季、動物植物の映像を見ながら、美味しいカレーを食べた。
食事を終えて、あとは寝るのみ。布団に戻ると、添い寝相手に照は『シュラフを持参したので、掛け布団はお使いください』と伝えると、『じゃ、頭1個分、私は沈みますね』とお兄さん。やはり夕日を一緒に見て正解だった。消灯後はすぐにイビキ合戦、照は前日も寝付きが悪かった、普段12時に寝ている人間が疲れているからと言っても7時には寝られない。腕時計で時間を気にしながら寝付いたのはたぶん11時で、再び目が覚めたのは2時くらい。照は山の中では緊張のせいか三時間しか熟睡できない、逆に言えば三時間さえ寝られれば、大丈夫なのである。15分に1度目が覚めるような朝居眠りを繰り返して日の出時刻を迎えた。
奥秩父の縦走路にあるため、朝食を食べずに朝四時に小屋を出る人達も多いため、呑気に寝ていられない。5時半が日の出時刻なので小屋の前から真東を見続けていた。待ってもなかなか出ない、寒いので一旦小屋に戻って、温まり直してから日の出を待っていると、太陽が上がってきた。『暖かい日差し。また1日が始まった。今日は下るのみだ』朝食を済ますと、次々に小屋を出発する宿泊者、気付くと最後になっていた。徳ちゃんに『荷物をデポしていいですか?』と聞くと、『テラスならいいよ』と許可してくれた。
まずは荒川源流へ小屋の前から遊歩道を降りて行くと、荒川源流があった。飲んでみると、葉っぱの味がした。ついで、埼玉県の最高峰『三宝山2583m』へ。甲武信ヶ岳より8m高いのですよ、埼玉県民なので山頂を踏まないとね。そのあと、また小屋に戻り、富士川(笛吹川)源流を見に甲武信小屋から登山道を横切って、沢屋の登り口を降りていく。数分でポンプ小屋が見えてきた。これは甲武信小屋へ水を汲み上げているのです。早速水を飲むと、うーん無味無臭、特に感想無し。
小屋に荷物を取りに戻り、ミッション完了したので西沢渓谷まで一気に下りましょう。標高差がなかなかあるのに、結構急な登山道であり、下りで使っていても、凄い道だというのが分かるほど。眼下には西沢渓谷のループ橋が見える『あそこまで降りるのか、まだまだ遠いいなぁ』あまりに疲れているので自暴自棄になったかのように乱暴に歩く。登ってくる人が大変そうに見えるので、『小屋のカレーは美味しいですよ』とニンジンをぶら下げてあげた。あと『布団一枚に二人です』という残念なお知らせも添えて。西沢渓谷までもう少しというところで後ろから轟音立てる熊鈴の音が近づいてきた、振り返るとイノシシのように全速力で向かってくるオジサン。反射的に仰け反り、後ろに一歩出してしまった。両手を広げて立ち木に何とか体を支えられたが、もし何もない場所だったら照は転落していただろう。オジサン必死に謝ってくれたけど。
やーっとのことで西沢渓谷の遊歩道に降り立った。が、周りは観光ハイキングの家族が大勢で、ガチな登山の格好した照は完全に浮いていた。しかも3日の登山を終えて、安堵と疲労と空腹、それに温泉でさっぱりしたかった。
車に戻り、装備を解く。安全運転で帰りましょう。雁坂トンネルを抜けて、道の駅『大滝温泉』へ移動。潔癖症と恥ずかしいがり屋の照は温泉や公衆浴場が苦手だったが、登山後のサッパリ感は格別で、特にこの大滝温泉は相性が良く、必ず立ち寄る場所になっていた。ここでサッパリ感を得ても、家まで車で2時間以上かかるのが残念なところである。
今回の山旅で山小屋に泊まること、2泊3日で山を歩くことを初めて経験できて、山梨との県境の約半分を歩いたことになった。そして、雁坂峠付近の雰囲気が気に入ってその後何度か訪ねている。
特に山小屋の主人の人柄が尊敬できて、山のことだけでなく、お話が楽しいのが良い。数年後に再訪した時にはツエルトで2連泊もお世話になり、晩酌会『ここでは食飲会議というらしい』にも誘って頂き、鍋をつついて、お酒を飲んで、楽しい一時を過ごした。主人は実家が元旅館で、猟師もやっている。『獲った鹿を埼玉県職員にあげるんだ』と言う。たまたま同日にその埼玉県職員が泊まりに来ていた。話を聞くと、『剥製にして博物館で子供に見せる』と言う。照はまさかと思いつつ『どこで剥製にするんだ?』と聞いてみた。『剥製屋だよ』との答えに『どこの?』と食い気味に質問を返した。『久貴の・・・』『久貴の?』更に食い気味に顔を近付ける。『内川剥製』照はやっぱりという顔で『それ友達の家ですよ』
まさか埼玉県の山奥で大学の友人の親父さんが経営する剥製屋さんの話が出るとは驚きであった。
【歩行距離36km、行動時間20h、県境20km】

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