『埼玉県境踏破記録 ~4 歩行速度は時速500m~ 』

笠取山~甲武信ヶ岳を歩き終えて、経験値が上がり、自信と体力が付きまして、もっと自然の中に居たくなり、もっと素晴らしい景色を見たくなり、たくさんの山を歩きたくなっていた。登山仲間も出来て、予定を合わせて一緒に登山にも出掛けた。
奥武蔵、奥秩父、丹沢山系、谷川岳、八ヶ岳、南アルプス北部、奥多摩など、有名な山ならば同行者は必ずいてくれて、安心して山歩きができた。
ある日、一番のパートナーである幸雄が赤岩尾根に行きたいと提案をしてきた。◯◯山、◯◯岳というピークではなく、尾根?どんなところだろうか。地図で見ると、群馬との県境にあり、一般登山道の実線ではなく、ベテラン向けの破線ルートである。幸雄と一緒なら大丈夫かな、そんな軽いノリみたいな感じでOKの返事をしてしまった。岩稜地帯なので、岩が好きな女性ミッキーにも声を掛けてみたところ、行ってみたいと返ってきた。
8月のお盆前の週末、金曜の夜に照は車を走らせ、途中の駅でミッキーを拾い、更に秩父駅で幸雄を拾って、今夜の宿泊地である道の駅『大滝温泉』へ向かった。ここは国道に面しているものの、駐車場に屋根があるため、軒下にテントが張れる。軽自動車の座席を倒して照は車中泊、ミッキーはテント泊デビュー、幸雄はツエルトを被って、それぞれ寝ることにした。さて、寝るか!と思ったら、いきなり目の前に落雷があった。雨も降り出したが軒下なので気にすることはなくそのまま寝た。
翌朝、天気は良く各自朝食を済まして、車で両神山の落合橋登山口に向かった。駐車場として使うだけで、登山口には入らずに車道を下り始める。昭和の初期まで鉱山の集落があった場所であるため、古い電力設備が電柱に取り付いていた、電力設備マニアでもある照は指差して叫んだ。『200Vの柱上開閉器があるよ』写真を撮ろうとデジカメを取り出し構える、まさかの『メモリーカードがありません』の文字が液晶画面に出た。『やっちまった!頼む、あれを撮って!』そんな姿にミッキーと幸雄は冷たい眼差しであった。『いいから撮ってよ』しぶしぶ撮影してくれた。2020年の現在もGoogleストリートビューでその場所の開閉器は見られる。
鉱山集落跡地はまさに廃墟である。敷地に入ってすぐに建物裏手の登山口に入る。天気は良いが昨日の雨のせいで湿度が高い、更に風がないため、登っている途中で幸雄がバテ始めて、『帰りたい』と言い始めた。『また冗談が始まったよ』照は思ったが言葉には出さずに稜線へ向けて歩いていた。稜線に近付くと、大ナゲシと言われる小ピーク方面から猿の喚き声が聞こえた、照は『キャーー!』と威嚇をしてみたが変化はなかった。本当はそこに寄ってから赤岩尾根に入る予定だったが、猿が居てはどうにもならぬ。仕方なく赤岩方面へヘルメットを被り歩き出した。
まずは前衛峰と言われる見た目は十分な大きさのある山を北斜面に巻いてから、弱点をよじ登る。特に危険な感じはしなかったが、次の赤岩岳を見て立ち尽くした。弱点はどこなんだ?よく目を凝らすと、コースを示す赤マークが樹林帯の中に二ヶ所ほど見え、平らに見える岩が露出している南面を登るらしい。
集中力を高めて、息を整えて、気合を入れて、いざ!岩に取り付くと、足元に鉱山集落があって、『落ちたら死ねるな』と冷静に考えた。しかも岩は三点支持でなければ登れないほど、反り立っているから恐怖心はかなりのものだった。ホールド(手で掴む凹凸)やスタンス(足を置ける場所)はある方ではあったが、1ヶ所、どうしても草を掴まないと次に行けない場所があった。草を指に巻き付けて、何とか突破できたが、『草に命を預けるなんて凄いことやってるな』と冷静に考えていた。赤岩岳は登り終えて、アップダウンを何度も繰り返す『尾根』に入った。岩の割れ目に身体を入れて引き上げる場所があり、細い照の身体より大きなザックが引っ掛かり通過に苦戦する。下る時には立ち木に捕まってブレーキを掛けながら進む。握るには丁度良い太さの立ち木を掴んだ瞬間、照はサスペンス劇場のような『あ゛ぁーーーー!』という叫び声を上げながら、握った木を垂直に持ちながら崖に向かって走りながらブレーキを掛けて何とか直前で止まることができた。実は握った木は枯れていて、単なる棒になっていたのだ。マサイ族のようなダッシュだったに違いない。そう思うと笑いが止まらなかった。後ろの岩影からミッキーが『今、凄い声がしたけど何か楽しいことあったの?』と笑いを堪えながら現れた。小ピークの看板を4つ通過した時、もう難所は終わったのだが、雲行きが怪しくなっているのに気付いた。雷鳴も聞こえて今にも降り出しそう感じだった。
一般登山道の八丁峠に合流し、駐車場の落合橋まで早歩きで下り始めて、5分も経たないうちにポツリと来た。そして10分も経たずに、最後のピークに落雷があった。『15分前に我々が居たところに落雷が』恐ろしい体験だった。何とか本降りになる前に車に戻ることができた。やれやれである。
車を走らせて5分後本降りに変わった、『助かったね』と照が言っても二人から反応がない、まさかと思い後部座席を見ると寝ていた。『まぁ、いいか』照は運転中に寝られることは嫌ではない、嫌なのは眠気と戦って頭や身体をクラクラさせられることだった。運転の気が散るのである。
秩父市街に入ると一旦雨は止んだ、だが、行く手の飯能上空にはどす黒い雨雲が覆っていた。『ねぇ、凄いよ』照が声を掛けても、二人は熟睡であった。正丸トンネルに向けて走ると、もう雨雲へ突入の状態になっていた。正丸駅を過ぎると物凄いゲリラ豪雨であった。国道299号は片側一車線の曲がりくねった山道であるため、山から流れ出てきた濁流が道路に流れ、車線がどこなのか全く見えない状況だった。対向車もハザードを光らせて停車する車も多かった。照は走り慣れた道で、フロントガラスにガラコを塗ったばかりだったため、視界は悪くなく、車線もイメージできるため走り続けた。しかし、神経を使うのには変わらないため、路肩に一旦待避して深呼吸することにした。
止まってすぐにミッキーが目を覚まして一言『凄い雨だね』酷い寝ぼけ発言である。『さっきからだよ』と照が言うと幸雄も目を覚ました。数分後にまた走り出した。カーラジオからはこの豪雨のこと、鉄道の運休情報が流れていた。2人を高麗駅で下ろす予定であったが、飯能駅まで送ったのであった。
朝、稜線で猿が居なかったら、たぶん大ナゲシに向かっていただろう。そして、P3辺りで雷雨に見回れていたに違いない、本気で猿に感謝であった。
幸雄は赤岩尾根にまた行きたいと言っていたが、照はゴメンだという気持ちで一杯だった。草に命は預けたくないのと、稜線は3kmそこを六時間かけて歩いた、つまり時速500mの超低速であったことが原因である。
【歩行距離7km、行動時間8h、県境2km】

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