『埼玉県境踏破記録 ~11 空白地帯を用心棒を連れて~ 』

前回の馬立沢から矢久峠までを歩いてから二週間後、会社の同期入社で190センチの長身スポーツマンである松元を用心棒にして、矢久峠から二子山を歩く計画とした。この区間はヤマコレに歩いた軌跡はなく、熊が生息していると思ったからだ。彼とは何度か一緒に山に行ったが、唯一私のペースに付いて歩ける体力を持っていた。単純に誘っても逃げられるので、『ちょっと3時間くらい軽いハイキングに行こうよ』と騙して、拉致したのであった。事実、林道歩き1時間、バリエーション1時間半、下山路30分の合計3時間である。
8時半に二子山の表側の登山口に着いて、裏側に回り込む林道が冬季通行止め解除されているのか慎重に進むと倒木があったが、軽自動車だったから難なく通過できた。
駐車場は思いの外、クライマーの方々で混雑していた。少し離れた路肩に車を停めて、退屈な林道歩き、山側の窪みには残雪があり、半生の鹿の屍もあった。岩壁には幻の珍味『イワタケ』がワシャワシャ、食べたことないけど、どんな味なんでしょうね。林道を歩いている時に照は松元に今日の任務を伝える。『もし熊が出たら、両手を挙げて威嚇しろ、相手がお前なら熊だってビビるはずだ』松元は『騙したな』と呟いた。『3時間は嘘じゃない』と照は必死に説得した。
矢久峠に到着、前回撮り忘れた観音様の写真を撮って『いざ!』踏み痕あるけど、藪っぽい道である。クモの巣が引っ掛かりそうで屈むが、後ろを歩く長身の松元は更に苦戦していたに違いない。ほんの数分進むと急に歩きやすい道になった。意外と踏み痕もあって、樹も生い茂る前なので見通しが良い。方向をGPSで確認しながら進むが、ピーク手前で道が南側に反れている。とりあえず道に従って歩くと90度方向転換してピークを踏む、ここにも社があって昔は峠道だったようだ。
その後、勾配の無く鹿避けの柵が群馬側にある区間を過ぎたとき、木に熊の爪痕を見付けた。『わっ、やっぱり』と思って辺りを見渡すと、『こっちの樹にも爪痕、あっちにも、あっ、あっ』と目に入る全ての立ち木に爪痕がある。『早めに通過しよう』と松元に言って早歩きで抜けて3分後、松元が『何か前にいたよ(怯)』と言い出す。具体的に言われなかったので、『何が?』と照は聞き返した。『絶対動物だよ(怯)』照はまた聞き返した。『えーっと、何色?』『灰色』熊ではないことが分かり、そっと前方を覗き込むと、こっちの様子を伺っていた動物はカモシカであった。『カモシカだよ』照は怯えた松元を落ち着かせてから、再び歩きだした。
やや歩きにくい地帯に入ってきた、ここからが本番のようだ。足元は柔らかい土で、捕まれそうな立ち木は全て枯れている。何とかそこを越えると岩々した雰囲気になってきた。ルートは岩稜をひたすら昇れば良いが、右側は谷底までえぐられた区間もあり気を緩めることは出来ない。岩稜を登ると言っても初見でマーカーもないから、時々偵察も必要で岩を巻こうと試みるが、やっぱり本線は岩の上だったりもした。岩は崩れそうな箇所は無かったが、次々に目の前に現れるもんで休まずに登り続けると、人の声が近くに聞こえた。『二子山の稜線はそこだな』と思って数分も経たずに、目の前が明るくなって稜線に立つことができた。『着いたよ』声を掛けると、松元は恐る恐る稜線に立った。西岳山頂まで地味に距離があるので、手前の広いところでのんびり昼食とした。
目の前に見える両神山があり、当日ちょうど幸雄と虎男が藪岩ルートを歩いていた。あっちはどうかな、おにぎりを食べながら眺めていたが、見えるはずもなかった。
食べ終わった後に西岳山頂へ向かおうとしたら、松元がへっぴり腰で岩場を通過していた。『どうした?』と聞くと松元は『俺、高所苦手なんだよ』と頼りない声で返してきた。バリエーションルートを難なく通過してきたのに、ここでの情けない姿、女の子ならばギャップに萌えるのだろうが、照はただ呆れていた。山頂直下の垂直の壁を覗き込むと、クライマーが大勢張り付いていた。
山頂から一般登山道で降りる途中に、枯れて落ちそうで落ちない邪魔な木があったので、『どかして!』と照が冗談で言うと、巨人のように木を根元から引っこ抜き、谷底に投げ落としたのであった。『やっぱり普通のにんげんじゃないな』照は笑いながら怯えていた。無事に車に戻った、丁度4時間弱、両神温泉に浸かって疲れを癒してから帰った。
【歩行距離8km、行動時間4.5h、県境4km】

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