『埼玉県境踏破記録 ~14 最難関の攻略法、その前に事件です~ 』

県境踏破の範囲から小沢峠以東を除外していたので、残りは10kmだけであるが、そこが最難関なのである。これまで、馬立沢遡上と二子山北東稜は、登山地図に登山道として記載されておらず、短い区間なのにかなり苦労していた。最後の10kmも地図には何も記載がなく、登山者も滅多なことがない限り入る場所ではない。登山レポートは幾つか転がっていたが、和名倉山での『他人のレポートを鵜呑みにするな』があるため、気軽には踏み込めない。また迷い尾根に何度も騙されたと書いてある。とりあえず、近いところから眺めてみるかと、晩秋に南天山と言われる奥秩父の秘境にアニキと行ってみた。
今回は山自体は難しい所はなく、ハイキングレベルだから、目的は偵察だということで、なるべく近付いて確認したい、エスケープルートも確認したい照にとって、アニキにはブレーキ係りになってくれた。アニキが居なければ、県境魂の血が騒いで県境まで足を伸ばしていただろう。山頂や稜線手前のピークから見ると、県境は本当に目の前だった。近いか遠いかの判断は、目視で樹木の幹1本が確認できれば普通の登山道なら1時間もあれば、歩いていける。そして、稜線の地面も確認できた、歩行の妨げになる藪は無いということだ。
イメージトレーニングできるようになったが、ますます怖くなった、1人では踏み込んだら帰って来れないだろう。熊遭遇、転落、道迷い、天候悪化、日没タイムアウトによるビバーク等々リスクだらけだった。
その頃、照だけでなく、アニキや幸雄も家庭を持つようになって、山に泊まり込みで出掛けることが困難になっていた。この区間を踏破するには、日の出前から入山して日没までに駆け抜けるか、2回に分けて片側から半分ずつ往復するかである。前者は初見でやるにはビバーク装備を持たないとダメだし、下山口(群馬)から入山口(埼玉)に戻る『足』を考えなくてはならない。車でなら長野を経由して2時間は掛かる。秩父を抜けるにも夜間通行止めのオフロードの林道を走る必要がある。林道でヒッチハイクをする技も考えるが、かなりのリスクがある。
片側からピストン(往復)が楽そうに見えるが、ピストンの往路は集中力が切れやすく危険であるのと、2回も行くのも同行者を探すのも『面倒』という問題が生じる。
そんなことを考えていた春先、自転車通勤時に事件は起きた。逆走してきた自転車を避けたタイミングでバランスを崩し転倒して、左膝を強打したのだ。『結構痛いけど、骨は大丈夫かな』試しに屈伸をしてみたら出来たので骨には異常ないと思っていた。『強めに打撲したなぁ』そう思いながら自転車をゆっくり走らせて、登り坂では降りて押した、足が後ろになると酷い痛みが走る。だが、登山の時の靴擦れの痛みや膝痛よりまだマシで耐えられるレベルだった。照の足はマヌケのサラブレッドで、縦寸法は22.5センチしかなく、幅は4Eという変態的な形をしていたので、靴の相性は悪くて毎回のように靴擦れを起こしていた。また登山を始めた頃は筋力が弱いため下りで膝痛に苦しめられていた。
会社の駐輪場に着いて、委託業者の運転手がタバコ休憩するベンチで一休み。『今日は休んでしまいなよ』運転手は提案してきたが、『骨は大丈夫だとは思うので』と言い残し、更衣室に移動する。階段を歩いて登れないので手すりに捕まってケンケンでいく。仲良い先輩から『どうした?』と聞かれ『自転車で転んだ』と返した。職場でも課長に呼ばれて、ビッコして近付いたら同じ質問がきて、『自転車で転んで・・・単なる打撲です』と言い残し立ち去った。当日の業務は製品の性能評価のため、実験室にこもっての作業。その前に実業団元選手にお願いして湿布を貰って患部に貼った。
午前中は実験室で基本椅子に座り、数歩しか動かない作業で終わり、お昼時間になった。食堂まで歩くのが面倒になり、患部の腫れも酷くなっているように見えたので、血流を良くするために椅子を並べて寝ることにした。打撲だろうけど妻には午後病院に念のため病院に行くと伝えた。
2時になって業務が一区切り付いたので立とうとしたら立てない。業務依頼者の先輩に『立てなくなったので、この椅子を押して貰えませんか?』と言うと、車輪つきの事務椅子を押してくれたのだが、足が引っ掛かって痛い。『ごめんなさい、引っ張ってもらえますか?』とお願いして、工場の廊下をぐるーっと引っ張って貰った。そりゃ、周りの社員からは『何を遊んでいるんだ?』という目で見られていたので、照は『どうもー、どうもー』と選挙活動のように手を降って遊んでいた。その時、ポケットの内線が鳴った、課長からだった。『今、会議室に来れるか?』照は答えた。『行きたいですけど、行けません。足が痛くて歩けなくなりまして、病院に行った方がいい打撲だったようです』すると一旦事務所に戻るよう指示が飛んで、課長も飛んできた。
総務に連絡して委託業者の運転手に病院へ運んで貰えるよう手配してくれた。再び椅子のまま工場内を移動して、車に乗り込もうとしたけど無理で、総務の元選手にお姫様抱っこで乗車。それでも左足が痛くて自力では収められない、その元選手が病院まで来てくれることになった。
爺さん先生の触診から始まった、『これは痛い?→痛くない、これは?→痛くない』を5回繰り返したあと、『これは?→痛いです!、これは?→痛いです』を8回繰り返し、いい加減にしろと爺さんの頭を殴りそうになった瞬間、触診が終わった。『レントゲンを撮りましょう』レントゲンも痛い姿勢になるよう言われて大変だった。
現像後、診察室に元選手と入ると『照さん、膝が6つに割れてますよ』と言ってきた。何をこの場に及んで冗談かよと思いつつ、レントゲンを見たら、見事な6ピースピザが出来上がっていた。唖然な照の横で、元選手が笑い出す。『お前、膝を粉砕していたのに、普通に業務していたの?』
この病院はベッドの空きがなく、手術するが必要だがここでは3週間後になるため他の病院をと言われ、とりあえず注射器で血を100ccほど抜いて貰った。元選手は膝の水抜きの痛さを知っていたのか、『痛くないの?』と聞いてきたが、爺さん先生の腕が良いのか、細身の足でツボが良くわかったのか、全く痛みはなかった。なお、痛み止めの薬はなく、簡易ギプスで固定されただけだった。
病院から会社に戻ると、ヤ◯ザの組長のように総務が総出でお出迎え。ちゃんと事務椅子まで用意されて二人に抱えられて運ばれた。総務には元選手が多く、怪我による痛みは知っているようで、『痛み止なしなの?痛くて夜寝られないよ。ヤブ医者かな』なんて心配された。口の悪い女子元選手は『照が皿割れた』と社内に広めていたようで、仲の良い先輩から『何やってんだよ』とお叱りの電話が次々届いたのであった。

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