『埼玉県境踏破記録 ~15 県境が遠退く~』

翌日に近所の病院へ行き、手術日の確定と手術に向けた健康確認があった。骨折の炎症により体温が38.5°になっていること以外全くの健康であった。翌週の月曜日に手術ということで、土曜から入院して、次週の土曜日に退院の予定となった。
手術しないで治す方法もあるけど、まだ若いから金具を入れる手術をして、しっかり治した方が良いとなった。金具を入れれば普通に歩けるようになって、1年後に摘出の手術を受ける必要があるが。
全身麻酔を勧められたが、無意識のまま死にたくないので、下半身麻酔にして貰った、初めての手術にビビりまくりだった。
手術は無事に終わって夜になった、麻酔が切れて手術前より耐えられない痛みとなった。飲み薬の痛み止めは1時間で効かなくなった。次の筋肉注射の痛み止めも数時間で効かなくなった。次は座薬と言われ、お尻を出すのが嫌なのと、あまり強い薬は使わない方がよねって看護婦さんとお話をして痛みに耐えることを選択して、何とか朝3時に眠ることができた。
が、病院の朝は早く6時に起こされた。普段は朝食を食べないのだが、カルシウム補給のため持参したシラス干しを山盛りにしてご飯を食べた。回診で『今日からなるべく歩いてね』と言われたが、現実をすぐに思い知らされる。
まずは、ベッドの上で強制屈伸マシーンに固定されて、10分間の拷問を受ける。リハビリというマンツーマンレッスンではなく、これは放置プレイの拷問で死んだ方が楽なような気もした。毎朝あって、2日目からは格段に痛みは和らいだ。
トイレとか散歩は両親が持ってきてくれた祖父の形見である杖を使って歩いた。鍼灸師の妻は『今膝を動かさないと、筋肉や皮膚などの組織が癒着して一生動かなくなるよ。細胞にここは動くところだよって教え込まないとダメ!』スパルタ教育だった。膝に埋め込んだアルミチタン合金の棒とワイヤーも動かすほど良く締まるようで粉砕した骨をしっかり固定してくれて治りも早く、キレイにくっ付くと言われていた。身体が不自由というのは本当に大変だった、特にトイレ事情はね。
退院後は数日自宅療養して、2週間ぶりに妻の車で送迎を受けて出勤した。通勤災害で休みは賄え、治療費も全額保険で降りた。社内ではエレベーターを使って行動していて、問題なく歩けるようになってから、総務で車イスを購入したとの情報が届いた。スキーで骨折した若者が早速使っていて、『俺のお陰だよ』と心の中で呟いていた。
術後2ヶ月後にサイクリングで膝の可動域を広げるリハビリを自主的に始める、痛みはなく力も入れずに長時間動かせられるので心地よい。東京の昭島にあるアウトドア用品店の往復で56㎞ほど、変な反動もなかった。こりゃいい、GWは熊谷経由で秩父市街に行き、帰ってくる160㎞の周回ルートとした。なお、照の自転車は石橋の最高級ママチャリpowered by6段ギアである。
膝周りの筋肉はなかなか戻らず、普通に歩いていても、たまにカクンと抜けてしまうことがある。
5月後半には以前から気になっていた奥多摩『むかしみち』を1歳半の息子と歩いてみた、息子は妻に背負子で担いで貰った。地道なトレーニングに嫌気が差してしまい、5ヶ月後には奥多摩の登山デビューに最適な山である鷹ノ巣山に登ってみた。気温が高かったのもあるが、へばりまくりで地図のコースタイムからも遅れてしまった。下りが最悪だった、全く踏ん張りが効かず何度も転倒し、全然ダメな状況に愕然とした。仕方なく高原歩きに趣旨を変更して、家族サービスに徹底し、長野の美ヶ原、霧ヶ峰を家族でのんびり歩いた。
術後10ヶ月が経ったので、医者にそろそろ金具を取って貰えませんか?とお願いした。CTの結果、良くくっ付いていると太鼓判を貰い、また手術入院。しかも月曜に手術なので、土曜日から軟禁される、全く健康なのにベッドでゴロゴロ変な感じがした。今回も下半身麻酔を希望したのに、麻酔師が変なのを余計に注射したらしく、眠りに落ちてしまい、『終わりましたよー』の声で目が覚める。
膝曲げマシーンはないが、癒着がまた起きないように翌日から自主的にリハビリを始めた。その効果があり、正座まで難なくできるようになった。
術後2ヶ月後から本格的に登山を始める、いきなり雪の白毛門&那須岳であった。続いて、外秩父七峰縦走大会に出場、明け方に雨がちら付いたせいか参加者が少なく、まさかの10時間弱でゴール。
しかし、登りの林道で違和感を覚えた、脹ら脛にハリがあって痛い。『久々だったからなぁ』照はポジティブに考えていて、次は雁坂小屋に2泊して散策して遊んでいた。さらには両神山のバリエーションを山友と登ったりとすっかり治ったもんだと思って歩き回っていた。
元々照は身体が硬いのに、怪我の運動不足で余計に硬くなり、前屈で手が膝に届かない状況だった。踵の骨とアキレス腱に圧力がかかり、炎症を起こしてしまう。『暫く安静に』と処方箋を貰い、毎日ストレッチすることにしたが、なかなか治らない。数ヵ月してやっと効果的なストレッチを身に付け、その半年後に左足に力を入れて歩く方法を思い出した。息子と山に行ったり、本格的な登山も再開し始めたが、なかなか最難関に挑戦する体力・筋力・勘を取り戻せておらず、タイミングもなかった。
そんな時、FMラジオ曲の開局30周年記念のラジオドラマで世界的トップクライマーの山野井夫婦のギャチュンカン登攀記録が放送された。関西地方への出張があったのでradikoで聴きながら新幹線移動していた。凄く面白かったが、もちろん原作からハショリがあるはずなので、照は読書が大嫌いだったのに躊躇いなくメルカリで購入したのであった。読み進めるほど、『自分の限界は自分が決めているものであり、集中力と気持ちがあれば、どんな難路でも踏破できる』と思わずに居られなくなった。そして、地図を広げて考えた。とりあえず1人で踏み込んでみようと、ダメだったら戻れば良いし、ツエルトも食料も水も防寒着も担いで、もし行けたら歩き通す。歩き通してしまったら、集落まで降ればキャンプ場があり、そこで1泊。翌日はバスとタクシーで御巣鷹ノ尾根登山口まで行き、長野と群馬の県境を歩いて入山口の三国峠に戻る。そんな計画をしたのであった。季節は寒くなく、暑くなく、湿度も低く、葉が生い茂っていないGWに決定した。御巣鷹ノ尾根も毎年GWに開山するのでちょうど良いタイミングだった。

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