『埼玉県境踏破記録 ~16 最難関ルートで孤独な闘い~ 』

照はこの山行をやるべきなのか悩んでいた。家庭を持つ責任と成し遂げたい気持ちがシーソーのように揺れていた。
その時、照と同様に埼玉県境を踏破完了秒読みの隣町に住む後藤氏と情報交換する機会があり、GWに最終区間を歩く計画をしていた。しかもその区間は照の予定区間の後半である。これなら少しは安心かな。そう思って決行に気持ちを固めた。
当日の未明1時に目を覚まし、1時半に家を出た。車を佐久経由で走らせて、川上村を抜けて三国峠に5時丁度に到着。最終の路上温度計はマイナス4℃だった、標高の高いこの場所はたぶんマイナス10℃だろうか、朝食のおにぎりを持つ手が酷く悴んだ。朝日が上がる、『さぁ行くぞ』いつもになく気合いを入れる。荷物を背負い、歩き出したが、最初の階段でヨロける。荷物が重すぎる。水は3.5L、2日分の食料、寝袋、防寒着一式、コンロ、合わせて12㎏はあっただろう。階段を過ぎると三国山まで難所もなく辿り着けると思っていたら、やらしい岩場が2ヶ所もあった。『下るにはリスクが高いな』照は退却時のために覚えた。
三国山は風が強く、ドライアイの左目から涙が滝のように流れる。『寒い』思わずに声に出してしまうほどだった。北斜面を降り始めると、地面が凍結していて、スリップ寸前であった。アイゼンを履くべきか悩んだが、立ち木はあるのでしがみつきながら先を行く。急な下りが出て来て、ルート選択しながら階段状の樹林帯を降りて行く、結構下ってきたところで、手首を岩に引っ掻けて、深く擦り剥いた。止血できるか不安になったが、気合が入っているせいか、出血はすぐに止まってくれた。途中撤退の時はこの斜面を登り返す必要があるのが、かなり過酷そうだった。照は『撤退は考えない』と決めた。マーカーは皆無だが、踏み跡は意外にもあるように見えたのは、まだ石楠花の葉が広げる前の季節で、視界が良好であったためで狙い通りだった。小ピークで先の道を見失った、慌てずに周りを見渡し、僅かな踏み跡を見付けて進む。最初のピークの手前が藪が激しい、地図に記載の通りだったが、それほど長くはなく、1つ目のピーク『ガク沢の頭』を踏んだ。『いい調子だ』照は腕時計を確認して冷静に呟いた。
そこから熊のフンが数m間隔で多発する。『これって秋のものかな、こんな残るものかな、やっぱり冬眠明けのものかな』照は瞬時に考えたが、冬眠明けと思って、ホイッスルを吹き鳴らす。馬立沢のような威嚇は聞こえなかった。
GPSをこまめに確認して、迷い尾根に入り込まぬよう、次は右、次は左と意識しながら歩いていたのが功を制し、道迷いによるタイムロスと精神的ダメージはなかった。
中間地点に2ヶ所だけ手強い岩場が出てきた。高さ4m位のクライムダウン、正面から降りる自信はなく、隅っこの斜面を降りるが軽くスリップして足が震えた。そこからも敵は熊のフンであり、道は予想よりは難しくはなかったため、とりあえず休まずにホイッスルを吹いていた。
歩き始めて4時間後、後藤氏が合流してくる滝谷山に到着した。まずは一区切り、安心なんぞはできない。
おにぎりを1つ食べて再び歩き出すが、なかなか歩きにくい道になってきた。熊のフンは相変わらずで、土が柔らかく、何処を歩けば良いか、あまり良いコース取りが出来ない。疲れもあって、ピークを踏まずに巻きたい気持ちもあるが、巻けそうにない斜面に出くわしてしまい、結局ピークを踏むことになる。それを何度も何度も繰り返す。もうボディーブローのように体力的にも精神的にもダメージが溜まってきた。何とかバリエーションルートの最後のピーク『ブドー沢の頭』に到着した。一般登山道のある帳付山は目の前にあるので、少しは道が良くなることを期待したが、見事に打ち砕かれて、アップダウンを繰り返されて、やっと帳付山への最後の登り、人の声が聞こえた。『やったー』息を切らしながら声を出した。
12時であったため、老夫婦と若者二人組が展望台でお昼にしていた。照も腰を下ろしておにぎりを2つ食べて、写真撮影してから、東に方向を変えて歩き出した。ここからは一般登山道だから楽勝だとまた期待してしまったが、難易度は上がってしまった。荷物があるので通過しにくい岩場があり苦戦する。例えるならリポDのCMだ。やーーっとのことで馬道のコルに降り立ち、一先ず安心した。ここから本当に難所はない。ただ登山道とアスファルト道がひたすら長いだけだ。
『誰かピックアップしてくれないかな、出来たらキャンプ場じゃなくて民宿に泊まりたいな』なんて思いながらダラダラ歩いて3時間、民宿に到着した。『飛び込みなんですけど、今日泊まれますか?』勇気を振り絞りダメ元で聞いてみたが無理だった。上野村村営キャンプ場の管理人は商店をやっていた。車は1台千円、バイクは1台500円というリーズナブルな価格設定だった。『歩いてきました』と照が伝えると、老夫婦が目を合わせてどうするか相談し始めた。歩きで来る人は居なかったらしい。『500円でいいですよ』照が呆れてお金を差し出す。『薪はご自由に』と言われたが、『朝早かったので早く寝たいです。ここの段ボールを貰いますね』と返した。『おぉ、いいよ。寒いから気を付けてな』と優しい言葉を貰った。自販機で飲み物を買った後、ツエルトのポジション取りに苦労したが、何とか設営完了し、夕飯のグラノーラを貪って、6時に寝た。目の前の滝の音が心地好かった。12時に空腹で目が覚めた、テントの外はそこまで冷えていなかったが、星空は綺麗だった。』後藤氏は何処に居るのかな』と余計な心配をしたのであった。
翌朝5時に起きた時、全身筋肉痛でヨボヨボ爺さんの状態だった。『これで再び入山出来るのか?』不安になってヒッチハイクも考えてみたがリスクが高い。やはり予定通り山を抜けることにした。
8時過ぎのバスに乗って、御巣鷹ノ尾根への分岐に到着、そこでタクシーを呼んで30分後に迎えにきた。『お客さん、帰りはどうしますか?』と聞かれ、墓参りならば駐車場で待っているよの意味である。『三国峠に抜けますので帰りは要りません。』と伝えると、電話で営業者に帰りますと伝えていた。迷惑な客だと思われたに違いない。だが運転手は観光バスガイドの如く、話をしながら運転してくれた。料金5500円、車の回収のためだ仕方ない。開山日のため各地方ナンバーの車が多く停まっていて、待ち合わせらしき人も居た。その人が寄ってきて『◯◯新聞のものです・・・』と話し始めた。照はすぐに勘づいて『あっ、違う案件で来ただけです』と伝えると離れてくれた。装備を整えて記者に頭を下げて入山。最初の曲がり道を曲がらずに、登山道から反れた。念のため振り向いて誰も追ってこないことを確認した。このルートはジャンボ機の羽が当たったU字溝に行く道として開拓されたとネットには書いてあった。マーカー豊富だが素人には無理な急斜面だった、ヨボヨボの照にもかなりキツイ登りだった。U字溝で合掌し通過する、この山域では写真を撮るべきではないと思っていた。長野と群馬の県境は枯れたスズタケが少しうるさい程度で歩きやすい道だった。三国山の岩場を嫌って落葉松林を抜けて林道に出た。ミッションが終了した。
【歩行距離29km、行動時間14.5h、県境11.5km】

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。