『向かう』

コポコポとケトルがお湯を沸かす。
マグカップにはドリップコーヒーがスタンバイ。
カチッと音が鳴ったら、トボトボと注いでいく。
はじめは少しづつ。じっくり蒸らすと美味しくなるらしい。
そうやって淹れ終わったコーヒーを片手にベランダに出る。
隣の迷惑にならない程度の音量の音楽をかけて、お気に入りのキャンプの椅子に座る。
赤と深い青の間。夕方と夜の狭間。溶けるような色が混ざり合う。ジリジリと太陽は沈む。

何もかも、忘れてしまっていい時間。自分だけを信じればいい時間。18時から10分間。こうやって私は自然と一緒になる。

ブーブーと携帯が鳴った。表示された名前に心が高まる。私ももう26になるのに、こんなことにときめいていて、この先大丈夫だろうかなんて考えながらメッセージを開いた。

「20時着の電車に乗ったよ。」

短い、ひとことの連絡。でも、たしかな約束。
今日、あなたは帰ってくる。また胸はときめいた。

「待ってる!駅まで迎えにいくね!」

イヤホンで聴いていた音楽のボリュームが少し下がって、ピコンッと携帯が鳴る。僕の胸は高まる。
夕方と夜の狭間。オレンジと深緑の間。ガタンゴトンと一段と大きな音を立てて橋を通過する途中。

やっと帰れる。好きな人に会える。
突然の転勤。僕たちは泣いた。住み始めたばかりの家に彼女を置いて、僕は新幹線で1時間かかる土地へやってきた。

出発の時、彼女は毎回「泣かないよ。泣いたら困っちゃうもんね。泣かないよ。気をつけてね。ご飯食べるんだよ。」と涙目で僕のことを送り出す。その顔を見て何度、電車で静かに泣いただろう。

ただ一緒に暮らしたい。隣で君の寝息を聴きたい。君の作ったご飯を食べたい。毎日会いたい。だから結婚したのに。どうして。そんなことを考えたって仕方ないのはわかる。でも、ふと考えてしまう。考えた後、我に返った現実にもっと悲しくなった。

今日は金曜日。定時で上がって電車に飛び乗った。もう何回目だろうか。リズムが出来上がってきた。君に1分でも1秒でも早く会えるように、早く君の顔が見られるように。ルートは完璧。乗車口3番で待機。乗り換えもスムーズ。あとは電車に揺られるだけなんだけど、これがまどろっこしい。早く早くが心臓から飛び出そうになる。うとうと寝ようにも寝られない。だって、君に会えるから。嬉しいから。

新幹線を乗り換えて地下鉄に乗る。あと8駅。約15分。音楽を聴いて、今日のご飯を予想する。本なんて手につかない。

「ーーーー次は、〇〇、〇〇。お乗り換えの方はこちらでお降りください。」

プシューッと音を立てて扉が開く。スタスタと最短ルートを抜けて階段を上がる。そうすると見えてきた君。人目を構わずブンブンと手を振る。僕はちょっと照れ臭くて、でも嬉しくてフリフリと返す。ピッと改札を潜る。

「おかえり!」

「ただいま!」

お互いに手を差し出して握る。

深い青と緑の先。電灯の白が明るく道を照らす。
黒の影が2つ混ざり合って進む。

大好きだよ。待っててくれてありがとう。
大好きだよ。おかえりなさい。

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