『寝ていた少年と起きた青年』

 風が好きだった。
 
 小さくそよぐ音が好きだった。

 秋が好きだった。

 温かい日差しが好きだった。

 涼しい風が好きだった。

 静かな時間が好きだった。

 一人が好きだった。

 家のリビングが好きだった。 

 怖くないのが好きだった。

 明日、なにをしようか。

 そんなことを考えた。

 にやっと笑って眠りについた。 

 そして、目を、覚ました。

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 どうやら、居眠りをしていたみたいだ。ぐっと体を起こすと、椅子がきいきいと鳴き声を上げる。休日に出てきた職場は人っ子一人いなくて、僕だけの秘密基地みたいだ。子供のころ作った秘密基地は山の中にあって、僕一人がようやく入れる木と木の隙間にあったっけ。友達とけんかしてそこに逃げ込んだら。どこに行ったか分からないと子どもも大人も騒ぎになった。もう少しで山狩りをするところだったと学校の先生が笑っていたっけ。記憶はずいぶんとぼろぼろに古びて細部は残っていないけれど、まだ不思議と原型を保って僕の中に残っていた。
 開け放した窓から風がびゅうと吹いた。かたかた、ざわざわ、こそこそと小さく、書類が、ペンが、窓が揺れる。ふうと息を吐いた。休日出勤をしてまで仕上げた始末書を置いて、席を立つ。さあ、帰ろうと。何をしようかなと。

 会社を出ると、昼過ぎの温かい日差しと、涼しげな風が僕を包んだ。自転車に乗って帰路に就く。通り過ぎた田んぼでは稲たちがさあさあと鳴いていた。すうっと息を吸うと、肺の隅々まで空気がいきわたる、生きているって実感が僕を満たした。

 何が好き?と聞かれた気がした。

 「風が好きだ」

 誰かに向かって答えた。

 そう小さなころのあの景色が、
 
 今も、
 
 まだ、
 
 僕は好きだ。

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