『モクロク』

 木曜日6限の帰り道、今日もバスに乗り込むと後ろから2列目に彼がいる。彼は私が乗ってから3つ先のバス停で降りる。その時間およそ8分。私は週に1度のこの8分間に魅了されている。
 彼については何ひとつ知らない。いつもルーズな服を着て、少しうねった長い前髪が鬱陶しそうだ。その見た目から私は
(夜中も営業してるカフェで働いてそう。シティポップとか聴いちゃうんだろうなぁ…たぶんそうだ。短距離移動はスケボーだな…絶対そうだ。)と想像を膨らませた。掴めそうで掴めない独特な世界観に魅力を感じた。気がつけば木曜日に限らず毎日彼のことを考えていた。

 「声かけてみなよ!」私が木曜6限の楽しみを打ち明けると友人ははしゃいだ声で言った。「あんたがそんなこと言うの珍しいね。いいじゃん、声かけなよ!」女子大生という生き物は他人の恋愛に対しては恐ろしく大胆になる特性を持つ。あまりに無責任だ。しかし、この手の話をするということは背中を押して欲しいという意図もあるため悪い気はしない。これも女子大生の特性である。「じゃあ彼の近くで物を落として拾ってもらうのはー?」この後も私が話をするたびに友人はこの調子で一見無謀に思える助言をし続けた。やはり無責任だ。

 今学期も終盤に差し掛かっていた。その日はひどい雨だったが、木曜日なのが唯一の救いだった。バスに乗り込むと定位置に彼がいる。私は焦っていた。学期が終わればこの楽しみが無くなってしまうと気がついたからだった。友人の言葉を思い出す。「じゃあ彼の近くで物を落として拾ってもらうのはー?」
 (物、落とそうか。)私はバスの前方の通路に立っていたのでチャンスはある。決意を固めることが出来ないまま2つ目のバス停を過ぎた。バス停まであと少し、彼がゆっくりとこちらへ向かってくる。
 (物、落とそうか。)魔が刺した。突然、バスが大きく揺れた。その時
"あの坂の向こう側で〜〜〜〜♪"
アイドルの可愛らしさ全開のポップな曲が鳴り響いた。バスが揺れた時に彼の傘が自身のイヤホンを引き抜いてしまったようだ。彼は慌てて音を止めると、何も繋がっていないイヤホンを垂らしながら顔を真っ赤にして急ぎ足で降りていった。
 私は愕然とした後、顔が熱くなるのを感じた。アイドルや、彼がいけなかった訳ではない。私は何も知らない他人に対して、独特な世界観がどうのこうのと勝手に決めつけ、理想を押し付け、期待してしまっていた。さらに言うとたった今、勝手に幻滅したのだ。私は自分の愚かさに気づき、恥ずかしくてたまらなかった。それから私は帰りのバスを1本ずらしたことで、彼をみかけることはなくなった。

 あの日、彼はバスから急ぎ足で降りた。
(ちくしょう、よりによってアイドル育成ゲームの広告かよ…)ついてないなと、赤い頬を擦り彼が『シティポップ・ベスト』を再生したことを「私」は知らない。

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