『~ALIEN~』

「できましたら、もうこちらには来ないでもらえますか」

 初美の前で、軽く頭を下げながら、カクカクとした敬語で喋る老婆。
数ヶ月前、たった数ヶ月前まで、この老婆は初美の「家族」だった。
最後に「家族」として接したのが、夜冷えないように上着を小脇に抱えていた記憶から察するに、
4ヶ月ほど前、5月の初旬だっただろうか。

 「あの、もうあの子に会わせてくれと言うつもりはないんです。
ただわたし、これだけをどうしても」

 初美が老婆に差し出したのは、薄いピンク色の封筒だった。
スーパーの文具売り場で買った熨斗袋用で、缶ジュース数本分の値段がした。

 「こうしてわざわざ持ってきてくれなくても、
銀行振り込みとか、色々方法があるんじゃありません?」

 あからさまに流暢な敬語が、まだそれに慣れない事を物語っている。

 「それ以前にですよ、こんなお金頂かなくても、あの子はわたしと洋介で十分育てて参りますので。
他に御用が無ければこれで」

 「あ、待って下さい」

 本当は玄関を蹴り上げて老婆を怒鳴りつけてやりたかった。
老婆が発する丁寧な丁寧語に、初美は冷たさと嫌味さを感じていたからだ。

 しかし、自らの立場を考えれば、この場で感情に身を任せる事に何の意味があるだろうか。
自制心、初美がここ数ヶ月で身につけたものである。

 「……わかりました、でしたら今日はこれで」

 初美は意味も無く庭の植木を見ながら、門扉のほうへと踵をかえした。
門扉の取っ手はやけに重く、不快な音を午後の住宅街に響かせた。

 「あの、最後に一つだけ」

 「……なんでしょうか」

 門扉を閉めている初美と正面から目が合う。
初美が背を向けた時に玄関を閉めていればよかった、老婆はそう思いながら、面倒くさそうな顔をした。

 「あの子は、元気ですか?」

 「はい、おかげ様でそれはとても。
できれば、先ほどの挨拶から『今日は』を除いて頂ければ、あの子はもっと元気になりますよ」

 真夏の午後の木漏れ日が影をおとし、初美と老婆が立つ玄関との間に、黒い境界線を刻み付けていた。

 ―*―*―*―*―

 缶ビールはすぐに温くなった。
無駄に元気な太陽のもと、真夏の空気は、冷えた缶を一瞬で水滴まみれにしてしまう。
こんな日に公園のベンチに長居するのは余程の変わり者だ。
しかし初美はそこに座っていたかった。
蝉の鳴き声が、何処よりもうるさく響いてくれるから。

 「お酒は二十歳になってから・・・」

 初美は空にかざしたビール缶を見つめ、意味もなく缶に書かれた表記をぽつりと呟いた。
初美が「缶に書かれた表記」を破ったのは、確か17歳の時である。

 酒を覚えた頃、同時に男女の関係も覚えた。
畑違いのサラリーマンであった洋介に迫ったのも、
あの頃は何か正体不明な自信に満ち溢れていたからかもしれない、と初美は思った。

 19歳の春、初美は身篭った。
生理が止まり、髭を生やした産婦人科医から妊娠を告げられた時、
初美はエイリアンに遭遇したような唐突な違和感を感じた。

 快楽の行為と生命の誕生、初美はその因果関係が理解できていなかった。
そして、そのエイリアンを産んだ夜、初美は目の前の赤ん坊の気持ち悪さに嘔吐した。
エイリアンを愛おしそうに抱きかかえ、涙ぐむ洋介が全く理解できなかった。

 ―*―*―*―*―

 ビールはすっかりお湯と化していた。
温かいビールを飲む趣向のある人が居れば、喜んで寄贈するところだが、
どうやらそんな人物は見当たらないので、クズ籠に向かう事にした。

 初美は斜め向こうにある砂場を眺め見た。
炎天下の日差しに焼けた砂を触る子供、
「幸」という象形文字の元になったような笑みをたたえた母親。

 「親子・・・・・か。わたしにも、ほんの少し前まで」

 洋介の事は愛していた。正確には「恋していた」のかもしれない。
しかし、エイリアンの事は愛せなかった。

 吐くほど気持ちの悪かった嬰児は、やけに豪華な産婦人科の夕食を数える間に大きくなり、
どう見ても自分の知っている「赤ん坊」の姿になっていった。
そして、とうとうそれは自宅にまでやってきた。
初美にとって、それは邪魔という2文字以外の何者でもなかった。

 3歳になった赤ん坊には、無垢な白い肌に青痣やねずみ腫れが刻み付けられていった。
児童相談所が調査した際、初美の怒声を聞いていた隣人の証言によると、

 「何であんたなんかが居るのよ」
 「あんたさえいなければ」
 「何であいつは避妊しなかったのよ」

 それは赤ん坊に向けられた言葉では無かった。
快楽を貪り、理想像の幸せを求め、その結果、訳も解らず出現したエイリアンのような我が子。
理解不能な現状に対する怒りを、目の前のエイリアンにぶちまけているだけだった。
その怒りは、醜悪なヘドロの様にどす黒く渦巻いていた。

 初美がようやく、起きている事実を把握できた時、
それは洋介と義理の母によって、初美と子供を隔離した後であった。

 ドラマでしか見たことの無い離婚届けが郵送されてきたのは、そのすぐ後の事だった。

 ―*―*―*―*―

 凶悪な西日は影を潜め、斜陽を迎えた街並みがオレンジに輝いている。
今だったらビールは温くならないかもしれない。
少し損をした気分になった初美は、山麓に半身を隠した太陽を恨めしそうに眺めた。

 ~「先ほどの挨拶から『今日は』を除けて頂ければ、あの子はもっと元気になりますよ」~

 義理の母が口にした最後通告が、初美の脳内をぐるぐると駆け巡っていた。

 「わたしは、寂しがっている・・・?
あの子が邪魔で邪魔で、仕方なかったはずなのに」

 余裕など微塵も無い給料から、どうして毎月仕送りなんか……。
罪償いのため? それとも、わたしがあの子の親で、あの子がわたしの子だという事が、
やっと、やっと理解できたからだろうか?

 「あの子は、わたしが産んだ……、
わたしが望んだ、わたしだけの…たった一人の子」

 うつむいた初美の横を、スーパーの袋をぶら下げた若い母親と女の子が通り過ぎていった。
初美は顔を上げなかった。顔を上げても、涙で前が見えなくなっていたから。

 夏の夕刻、ひぐらしが鳴き叫ぶ街路の片隅で、初美は初めて母親になった。
それは、全てを失った後の事だった。

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