『煙と朝』

こんな朝はいつぶりだろうか。
生来、分からないことを分からないままにしておくのがひどく苦手な少年だったことをよく覚えている。

「やっと起きたの。ずいぶん良いご身分だこと。」

昨夜と変わらぬ口調で彼女は言う。
灰皿には、彼女の吸い殻が2本増えていた。

「別に。普段からこの時間に起きているわけではないよ。」

一言か二言言葉を交わし、テーブルの上に置かれたままのグラスを手に取り、残ったウイスキーを胃に流し込む。

彼女がいつから起きているのかは分からないが、彼女は朝食を拵えているようだった。

「いつから起きていた?」

「さあ。1時間くらい前だったかな。」

「へえ。」

特に興味があったわけでは無い、自分でも分かるくらい、素っ気なく返事をした。

「ねぇ、冷蔵庫にあるもの、勝手に使ってしまったけれど良い?口に合うかは分からないけど。」

「ああ、構わないよ。ぼくがキッチンに立つなんてそうないからね。」

この家に来た誰かが買ってきた物だ、勝手に使うことを咎める資格など無い。

「なるほど。ずいぶん良いご身分だこと。」

含み笑いを浮かべながら、彼女はテーブルに皿を運んだ。

トースト、ベーコンエッグ、トマトとレタスのサラダ、コーンスープ。

「コーンスープの素なんてうちにあったか?」

「素が無くたって牛乳とコンソメがあれば作れるのよ。コーンは缶詰を使ったの。」

口に出したつもりは無かったが、疑問が口から零れていたらしい。

「へえ。覚えておくよ。」

「覚えたところで、あなたがキッチンに立つことはないんでしょう?」

「その知識を使うかどうかじゃない、知らないよりは知っていた方がいい。知識は消えて無くなったりしないからね。」

「変な人。私も人のこと言えた義理じゃ無いけど、やっぱりあなたは変な人よ。」

他人のぼくに対する言葉は、昔からこれだった。

誰かに理解されたことなど無かった。あったかもしれないが、それは煙のような物だった。

刹那的には存在しているが、数秒もたてば目の前から消えていく。無くなってしまうなら、

はじめから無かったことにしておいた方が楽で良いじゃないか。

この家に来る女は皆一晩以上、ぼくを理解する気など無かった。

ぼくは知ろうとする。元恋人の経歴から何まで知ろうとしてきた。

でも今は目の前にいる名前も年齢も分からない彼女となぜか暮らしている。

知ってしまったら、彼女は煙になって消えてしまうんじゃないか、そんな馬鹿げた妄想をするくらいには心地よかった。

聞けずにいるのか、聞かずにいるのか。考えるのを放棄するくらいには心地よかった。

彼女はここを出たらどこへ向かうのか。分からない。分からないままでいい。

「ぼくは夕方から予定があるんだ。日が暮れたら起こしてくれないか。」

我ながら驚いた。他人をここに留めようとする言葉が出たことに。

寝坊はおろか、待ち合わせに遅れたことなどない。それでも頼まずにはいられなかった。

彼女の返事は予想通りであった。

「ふふ。ずいぶん良いご身分だこと。」

煙草に火を着けながら、彼女は笑った。

知らなくてもいいと思った朝を噛みしめて、ぼくは再び眠りについた。

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