女は息を切らしながら走る。
低いヒールが叩き出す足音が、陽の落ちた街路に響き渡り、後ろへ後ろへと消えていく。
女は「斉藤」という表札の掲げられた家の前で急ブレーキをかけると、
一直線に門扉を通り抜け、玄関の扉を乱暴に開け放った。
「はあ……はあ……、ごめん、お母さん、今帰り」
今年で31歳になる女の身体には過酷過ぎる全力疾走。
息も絶え絶えな女の前に、「お母さん」と呼ばれた老婆がのっそり現れると、
指で「4」の数字を作りながら女に語りかけた。
「40分、40分の遅刻だよ」
「ご、ごめん、タイムカード押そうとしたら、急なミーティングにつき合わされちゃって」
呼吸が整ってくるにつれ、家の奥からは懐かしい煮物の匂いが漂ってくる。
女は玄関の床にバックを投げ出し、ため息と共に低い天井を仰いだ。
「ああ、かなちゃん、もうご飯済ませちゃった?」
「こんな時間まで飲まず食わずじゃ可哀想だからね。
ほら、あんたも上がって食べていきな。どうせこんな時間からじゃ、ロクなもんしか作れないだろ」
「……ほんと、ごめん」
―*―*―*―*―
女の名は斉藤恭子。
夫とは2年前に離婚。世間でいうバツイチである。
一人娘の親権と監護権を引き受けた事を、後悔は無い。
あの男には任せられない、任せたくない。
しかしシングルマザーの現実は、恭子の想像を遥かに超えていた。
生活の糧を得るために増やした仕事と、7歳になる娘の子育ては両立し得ない現実がある。
結局、頼るは母の元であった。
しかし、実家という名の「学童」も、決して安くない。
母の小言は日増しに増え続け、しまいには再婚の話まで持ち出された。
仕事の時間が長引けば母に気を使い、
娘に時間を傾ければ、職場の圧力に恐怖し、
恭子の毎日は、姿の見えない敵に囲まれた孤立戦線のように過酷な日々を送っていた。
「この子宿題ぜんぜんやってなくてさ、6日分も溜めてたんだよ」
「それ、さっき電話で聞いた」
「あたしもね、腰が痛いわ頭痛がひどいわで」
恭子のは母は、あいたた、と大袈裟なジェスチャーをとりながら恭子に近寄った。
「そんな中あたしが見てやったんだよ、宿題。
小学生の勉強とはいえ、もうくたびれてくたびれて」
「それも、さっき電話で聞いた」
恭子は、テレビの前で転寝をする娘の加奈子を見つめた。
不思議だな、と思う。
今自分が箸に挟んでいる茄子の煮物の味は、自分が子供の頃と何も変わっていない。
でも、いつの間にか自分が親になり、娘の傍でこの煮物を味わっている。
そして、母にこんな小言を言わせる状況に陥ってしまっているのだ。
「勉強ぐらいちゃんと見てやんなよ、忙しいのは分かるけどさ」
「分かってる。明日から……仕事の時間の事、何とかできる、と思う」
―*―*―*―*―
外に出ると涼しかった。
昼間、地面に焼印を押すように照り付けていた陽がとっぷりと暮れ、
湿気の無い涼しげな風が肌を撫でる夏の宵だ。
「かなちゃん、お婆ちゃんに昨日何食べたか、って聞かれることある?」
恭子は、手を繋いだ加奈子の背丈に目線を落とした。
気が付かない間に、少し背が伸びた気がした。
「うん、聞かれるよ」
「何て言ってるの?」
「う~ん、お弁当とか、駅前のハンバーグとか」
母がこの間機嫌が悪かった理由を、恭子は突き止めた気がした。
夕食くらいきちんと自炊しなさい、と言われていたのだが。
やはり加奈子にサグリを入れていたのか。
「ねえかなちゃん、ちょっとお買い物して帰ろっか、明日の夕御飯の材料とか」
「明日はおうちで食べられるの?」
「うん、お母さん明日は早く帰るからね」
恭子を見上げる娘の幼い瞳は、内側から喜びを爆発させたように輝いていた。
そんな加奈子を見ていると、嬉しくもあり、ひどく切ない心境に駆られた。
明日は早く帰らなくては、母と加奈子との約束だから。
でも、また厄介な臨時の仕事が舞い込んでくるかもしれない。
職場には何と弁明すれば言いのだろうか。
自分の毎日毎日が紡ぎ出した、人生のレールの上に現在(いま)がある。
どこで間違ったのか、どこからやり直せばいいのだろうか、
「あの時」のわたしはどこに行ってしまったのだろうか。
夏の夜風の香りは、恭子が胸に秘めた「戻りたい時」の記憶を悪戯に刺激し、呼び起こさせてくる。
これ以上こんな事を考えていたら、涙が零れ落ちそうだった。
恭子は加奈子の手を引くと、夜風の入らぬスーパーの中へと、小走りで駆け込んで行った。
突然走り出した母を、加奈子は不思議そうな瞳で見上げていた。
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