『母親が死んだ少年と子どもが死んだ母親』

 「ところで、いたいけな少年はこんなところで何してるの?」 

 「僕のお母さん死んじゃったんです」
 
 「お、奇遇だね。私もつい先日、息子が死んだんだ」

 病院の待合室で一人だった僕になんとはなしに話しかけてきた人がいて、その女性は僕が切り出した話をものすごく気軽な調子で返した。いや、嘘だ。あまりにも調子が軽かったので、僕は思わずそう口に出していた。

 「いや、ほんとほんと」

 女性はそういって、軽く手を振った。ただ、そのあとにまあ、死亡届とかは出してないんだけどねー。と小さく呟いていた。どういうことだ、と思わず突っ込みかけたけど、少し考えて、ちょっとだけ合点がいく。目の前の窓口、産婦人科じゃん。

 「妊娠してたんですか?」

 「そう、そんで流れた」

 僕の推測をあたりーと補足してくれる。しかし、話している内容とテンションがかみ合わない人だなと思った。

 「まだ顔も見てないけど、悲しいもんですか?」

 「うわ、ずけずけ聞くね君、デリカシーないぞー」

 そういう割にははと漏れる笑いは軽い、たぶんはたから見たら傷ついてないように見える。ただ同時に、段々それが後ろ向きにならないように空回ってるようにも見えてくる。どっちかな、と端目で覗いてみた。パッと見た感じはそれらしい様子は見えない。

 「でもまあ、答えてあげよう。悲しい、のは悲しいかな、たぶん。ただあんま正直自覚がない。できてたってわかったのもつい最近だったしね。やっぱ実感が薄いというか。逆にえ、こんなもんって感じだね」

 いろいろと自信なくすよねーと自分の下腹部を撫でながら、女性はそう漏らした。言葉尻になるほど言葉は小さくすぼんでいく。

 「ちなみに、少年のお母さんはどうなったの?少年を産む前に死んだの?」

 「いえ、それじゃ僕どうやってここにいるんですか。普通に病気で亡くなりましたよ昨日くらい」

 「普通とはって感じだねー。母の愛に飢えたり、死を悲しんだりとかはしないの?」

 「そういう感じの人でもなかったので・・・」

 「ふーん、変な少年」

 そういった後、その女性はしばらく考え込んだ後、もし、もしもだよと前置きをして話し出した。

 「もし私が、君の母親の代わりになってあげるよって言ったらどうする?」

 「・・・・・」

 提案が突拍子もなさ過ぎて、いまいち真意が読めない。僕はんー、と唸ってからどうにか答えを絞り出した。

 「それをやると、ついでに代わりの父親もついてきません?」

 「いや、それに関してはノープロブレム、もう、いねーから」

 へ?と思わず漏れた。視線を向けたときにようやくその女性に肩から胸にかけて大きく黒く細い傷があることに気が付いた、隣に座っていたから正面から見える部分が見えなかったのだ。

 「いやー逃げちゃったよねーあいつ、妊娠分かっちゃった時点でさ」

 あー、とかそんな情けない声しか出なかった。なんか男の弱さのようなものを見た気がしてすいません、と謝るとなんで少年が謝んのと笑われた。ははは、と笑うたびに胸にあった細く黒い傷を少しずつにじんで広がっていく。

 そのままにしておくと、いつかそこから何かが吹きだして呑み込まれてしまいそうなおぞましさがあった。

 「じゃあ、やっぱり・・・・」

 「ん?」

 「えっと、お願いしていいですか?母親代わり?」

 そのままにしては置けないと思ったので話をつなげたのだが、正直、これでいいのかよくわからなかった。そんな僕を女性はしばらくきょとんとしたような顔で見ると、しばらくするとぎゃははと大声で笑いだした。あまりに大きな声だったので受付から冷ややかな視線が飛んでくる。

 「おもしろ!やらせてくれんの?母親役?」

 女性はひとしきり笑いながら、僕の頭をぱんぱんと叩いた。それから髪をぐしゃぐしゃにされた僕の想定している母親像とはだいぶかけ離れている。そんなことを考えていると、女性はすっと立ち上がってこちらに向き直った。正面から見ると、細い傷がよく見える。

 「せっかくの申し出だけど、やめとくわ。私、少年の母親じゃないしね」

 そして、君は私の息子でなーい、と指を犯人を指名する名探偵みたいに突き付けてきた。どうでもいいけど、息子と断定できるくらいには、大きくなっていたのかもしれないと考えた。残酷な想像な気がした。

 「でも、ま、ありがとう。優しい子に出会えてちょっとだけ心の傷ってやつが癒された気がするよ」

 そういった瞬間、女性はたぶん無意識に、だって僕にしか見えていないはずだし、黒い傷に触るとその傷が確かに少し小さくより細くなった。

 「じゃあね、少年!」

 女の人は走り出した。ちょっと笑ってさえいる気がした。強い人だなあ、半ば感心していると、お父さんが僕のほうに駆け寄ってきた。

 今の人、どうした。ううん、なんでもない、おしゃべりしてただけ。そんな会話をして、僕はお父さんと一緒に病院を後にする。これで、病院の後始末も終わった。あと、やらなきゃいけないことは何だっけ?えーと、メモによるとだな・・・。お父さんとそんな会話をして、慌ただしくすごした。

 病院からの帰りに車に乗っている間に話をした。今日会った女の人のこと、見えた黒い傷のこと。そして、それが細く小さくなったこと。お父さんはしばらくそれを黙って聞いて、共感覚のようなものかもな、といった。そして、僕が見えているものがもしかしたら、人の心の傷かもしれないと付け加えた。僕はふむ、と唸ってそのことを自分の頭の中で反芻する。心の傷、心の傷。納得したような、しないような。そういえば、なんであの人は自分から提案しておいて、母親の代わりを断ったのだろう。僕の問いに、お父さんはしばらく考えてから。きっと、それは誰も誰かの代わりにはなれないと気が付いたからだよ、といった。どこまでいっても、その人はその人にしかなれないし、たとえ役割が同じでも代わりにはならないのだといった。

 僕は正直によくわからない、とこぼした。お父さんは笑った。

 言葉だけじゃ、実は人間は理解なんてしていないんだ。そのことを体験して、思い出して、心に刻み込んで、その時初めて、人間は理解するんだ。もちろん、一生理解できないこともたくさんある。

 お父さんはそう言った。

 相変わらず、よくわからなかった。

 だから、試しにあの女性がお母さんになったところを想像してみた。僕を甘やかしてくれるのか、厳しく接してくれるのか、ただ、想像してみたけれど、そこにいるのは「お母さん」ではなく、待合室で知り合った、あの女の人だった。

 人は人の代わりにはなれない、じゃあ、あの人がなくした息子は?

 話を聞いてるだけではわからない。ただ、小さくなっていった心の傷を僕はなんとなく思い返していた。

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