『130 cmの距離感』

 あまり話したことのない人と話すとき、たいてい好きなものの話になる。僕は雨が好きだと言うと、たいてい相手は変な奴をみる目になる。当然、相手はその理由を聞いてくるわけだが、雨が好きな理由はいくつかある。でも、変に説明してもわかってもらえないから、「なんとなくよくない?」と毎回ごまかしていた。
 真剣に理由を考えたことがない、というのもある。だが、しいてあげるとするなら、一人でいることに理由ができるから、だろうか。
 傘をさすと、自然と傘の分だけ、相手から距離をとることができる。クラスの人はみんな距離感が近すぎるのだ。近すぎるから、衝突するし、傷つけあう。そんな光景を見ていると、適切な距離感なんてものを考えてしまう。何もクラスだけに限った話でない。最近の、何でもかんでもつながろうとする、現代社会にも通じるところがあるんじゃないだろうか。
 雨は、万人に平等だ。すくなくともその地域に住んでいる人たちには等しく雨が、大多数の人が感じるであろう、アンラッキーが降ってくる。自分だけではなく、みんな平等にアンラッキーに遭遇する。だれか一人が幸福になるようなことがない、という事実が、どこか僕の心を安心させてくれる。
 誰も憎まなくてすむ。みんなで天気サイアクといえる。
 地域によっては、恵みとすらなる。
 雨はノーベル平和賞を受賞してもおかしくないと本気で思っている。
 信号機で偶然立ち会ったクラスメイトの女の子にも、そんな持論を話すと彼女はおかしそうに笑っていた。
「でも、そんな感じでずっと距離感をとっていたら、すれ違ってしまうかもしれないね」
 その偶然の日から、彼女の何気ないひとことが、どこか僕の心に小さな小骨を差し込んでいる。小さな小骨はやがてじわりじわりと、僕の心の奥底まで刺さっていった。
 再び雨が降った日、僕は今までと同じように雨の日を考えられなかった。少しもやもやした気分で傘を差し、あの時と同じ信号で立ち止まる。
 すると、後ろから声をかけられた。
「陸くん?またこりゃ偶然だね」
「御影さん?どうも」
「反応薄くない?」
「そうかな?僕はいつもこんな温度だよ」
 ちらりと彼女の横顔を盗み見ると、彼女は傘のはじから雨雲を眺めていた。僕のクラスでの雰囲気を思い出したのか、「それもそっか」などとぶつぶつと納得していた。
 信号が変わる間、僕はこれがチャンスだと思って、この前のことを聞いてみた。
「御影さんは、この前雨の話をしたのを覚えている?」
「雨の話?あーなんか話したっけ。というか、陸君がいっぱいしゃべっていた記憶のほうが濃いなぁ~」
「う、うん。否定できないな。それで、御影さんが言ってたことがあるんだけど」
「私、なんか言ったっけ?」
 彼女はうーんと、記憶を掘り起こしていると、「ああ、」と自分が言った言葉を思い出したようだった。
 信号はすでに青に変わっていた。でも、僕はこの話が終わるまで、その場から動こうとは思わなかった。彼女もそんな僕を見て、先に渡ることはなかった。
「陸君が雨の話ばかりだったから、不思議だなぁって思って」
「不思議?何が?」わけがわからない、と思って御影さんのほうを見ると、御影さんは目の前で傘をたたんだ。
 驚いて彼女を見ると、彼女は猫のように俊敏に、するりと僕の傘の中に入ってきた。彼女の長いまつげが目の前にある。
 鼓動が早鐘を打つ。
「だって、雨が降れば、必ず晴れるじゃん?雨の話じゃなくて、晴れの時の話をしたいなって思って」
 70㎝と60㎝の距離感。130㎝の距離を彼女は一気に詰めてきた。
僕の傘の中に踏み込んできたのは、彼女が初めてだった。
彼女はいたずらっぽく微笑んで、また傘から出る。
「私は晴れのほうが好きだから、晴れたらの話がしたいけど、雨が好きな理由、1つだけあるんだよ?私が雨が好きな理由、教えてあげる」
 御影さんは自分の傘を再びさして、僕の一歩前を歩きだす。
 信号はもう一度、青になっていた。
「今みたいに、いつもほかの人に壁を作っちゃって、話してみたいなぁと思っても、クラスではなかなか話しかけにくい、陸君との距離をゼロにできるからだよ」
 その後ろ姿を見ながら、彼女が今どんな表情をしているのか、なぜかとても気になった。
 僕も、歩き出した。一歩が軽い。
 心に刺さった小骨の痛みは、なくなった気がした。

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