『霧雨と藍色』

 さああ、と心地の良い音が夜の向こうに響いて、ほうと息を吐いた私はゆっくりと目を開いた。
 夜の帳が下りれば、水道尻の常明灯に火が灯る。見返り柳が闇に呑まれるほど、街は華やかに賑わって行く。
 煌びやかな街の灯りと雨に滲む赤提灯。通りに面した格子の内には華やかに着飾った女達が並び、体を舐め回す下賤な視線にうっとりとした笑みを返す。
 __ここは江戸の二大悪所の一つ、吉原遊郭。傾城の女達が一夜のまやかしを契る、夢のような不夜の街。

「こんばんは。今日は雨ですね」
 ひしめきもつれ合う声の中で、ふと響いた柔らかい低音が心地よく耳を擽った。ふわりと頬を撫でた白檀の香りに顔を上げれば、眼鏡の奥の優しい瞳が慈しむように細められる。
「まあ…先生、良い夜にありんすね。雨の吉原は綺麗にござんしょう?先生も楽しんでいって下さんし」
「残念ですが、今日も花を仕入れただけで終わりそうです。あまり手持ちもないので、またいつか」

 格子の向こうのその人物は端正な口元を柔らかく綻ばせた。
 …この見世が贔屓にしている花屋の息子、らしい。客の少ない昼見世では勿論、賑わう夜の張見世でも近頃見掛けるようになった、落ち着いた佇まいの青年。
 控えめな色の羽織と一つに束ねられた長い黒髪。細い腕に抱えられた藍色の花は、花弁に乗せた雨粒に街を映して燦燦と煌めいている。

「まあ…立派な紫陽花にありんすね。今月はその花にありんすか?」
「ええ、そろそろ梅雨ですからね。花魁はこの花がお好きなんですか?」
「あい。晴れた日に見ても綺麗にありんすが、雨の中で咲き誇る姿がとても可愛らしゅうございんす。それに…わっちの『詩片』という名前は、紫陽花の別名である『四片』に因んだものにありんすから」
「…そうでしたか、それは野暮でしたね。では、毎年この時期は紫陽花を見世に飾るとしましょう。美人番付最上位の好きな花とあれば、遣手婆も口を出さないでしょうから」
「ふふ、どうでござんしょう。なれど…至る所に紫陽花の活けられた見世は、わっちも素敵と思いんす」

 先生に悪戯っぽく笑みを返して、今宵の打掛け…上等な生地に咲いた花の刺繍を優しく撫ぜる。
 …私が水揚げされて間もない頃、馴染みの客となった呉服屋の若旦那が下さった打掛けだ。夜を彷彿とさせる深い黒に白い紫陽花があしらわれていて、闇を裂くような金の雫が所々に降り注いでいる。

『吉原に咲く花の中でも、詩片だけはずっと清く在るように。そんな願いをかけたんだ』

 若旦那は粋なお方だ。少し前に身請けされてしまった私の姐女郎の馴染みで、私が振袖新造の時からのよしみのある客。私が水揚げされるや否や足繁く通ってくれるようになり、今では私を妹 ―妻ではなく― のように可愛がってくれる。私の馴染みとなってからも床に入る事はなく、かつて姐女郎がいた頃と同じように、花魁と禿達だけで酒を飲んで帰ってしまうのだ。

 …なんて。短い回想に小さく笑みを零したその時…先生はいつもの穏やかな笑みをスッと消して、「花魁」と真っ直ぐに私の目を見据えた。

「以前、父が言っていました。女郎とは花だと。客の目を楽しませる為に活けられ、愛でられ…群がる蝶に蜜を差し出すのだと」
「…ええ、そうにありんすね。先生はそうは思わないのでありんすか?」
「客の男は蝶なんて綺麗なものじゃない。月と篝の区別もつかずに惹かれ、見苦しく群がる蛾と何も変わらない。…私には、吉原というこの街が、男の浅ましい欲を満たす為だけに作られた…鳥籠のようにしか見えないのです」

 …嗚呼、先生。どうしてこの街の人間ではない貴方が、そんな顔をするの。
 先生の言う事は正しい。どれだけ傾城と謳われようとも、どれだけ煌びやかに身を飾ろうとも、雅な香を纏おうとも…この街で夢を売る女は皆、幼くして実の親に身を売られたのだから。
 女衒に連れられて吉原大門をくぐり、見世に引き渡され、生まれ持った身分を無くして等しく「禿」と呼ばれる。礼儀作法や芸能の一切を叩き込まれ、素性を隠す為に廓言葉を強いられる。やがて新造、水揚げを経てからは、年季明けか身請けを迎えるまでの間、吉原から出る事を許されずに夢を売り続ける。
 …何も知らない人間からは、彼女達は哀れに映るかもしれない。それでも、私達遊女は他に生きる術を持たないのだ。
 この街から逃げようとして見せしめに殺されるか、この苦界で心を殺して体を売り続けるか。…どちらかを選べと言うのは、遊女達の人生を否定する事になる。
 先生も、それを分かっているのだろう。悲しそうに眉を下げる彼がいたたまれなくなって、私もそっと顔を伏せた。

「…申し訳ありません。今日はもう…」
「…あい。また来て下さんし」
「ええ、近いうちに」
 視界を伏せたまま声を絞り出せば、柔らかさを取り戻した先生の声と、ス…と上品な衣擦れが耳に届く。
 ざり、と土を踏みしめた音と、鼻腔を擽った白檀の香り。ぎゅ、と強く目を瞑ったその時…ふと私の前に影が差して、格子の向こうから何かを置いたのが分かった。

「…最後に一つだけ。青の紫陽花の花言葉の一つは、『忍耐強い愛情』なんです」

「詩片花魁。いつか…あなたという花を、私に摘み取らせて下さい」

 ハッと顔を上げたけど、そこに彼の姿は無くて。ふと視線を落としてみれば、先生の腕にあった紫陽花が一朶、私の前に横たえられていた。チントンシャンとさんざめく弦歌や雑踏をぼんやりと聞きながら、細雨に濡れた藍色の花をそっと撫ぜる。

 …先生は、いつだって他人に優しい。きゃっきゃっと懐く禿にも穏やかに微笑み、毎月大量の花を依頼する楼主にも丁寧に対応し…箱に囚われた惨めな売女にも、陽だまりのように温かな夢を見せる。
 もしこの街を出る事が出来て、先生と添い遂げて、先生だけを愛していけるのなら。先生の傍で生きて行けるなら、どれだけ…幸せな事だろうか。

「さっきまでここにいた兄ちゃん色男だったなあ…あんなに良い男でも詩片に骨抜きってか?」
「何でぇ何でぇ、今日の花魁はご傷心か?」
「…いいえ、何でもございんせん」

 …でも、そんな生ぬるい幻想が叶う事は無い。ここは吉原。見せかけの悦楽で遊女の悲しみを塗り隠した、現実であって現実ではない街。
 通りから掛けられるねっとりとした声に、現に戻った私は目を細めて口元を綻ばせた。格子に張り付いた下劣な瞳に、悩まし気に頬を染めた滑稽な女の姿が映る。

「さあさ、主様。わっちと遊んでおくんなまし」

 体を値踏みする目に少しだけ視線をずらせば、霧雨に咲いた色とりどりの傘がひしめきもつれて流れて行く。しとしとと濡れる闇を華やかな街の向こうに垣間見て、更けて行く吉原の夜にそっと涙を隠した。

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