『男の爪』

 男は、生まれたときから怒っていた。常に怒りを持て余していた。
 たいそうな癇癪もちであった男は、いつも周囲に疎まれていた。遠ざけられ、嫌われ、不審がられ、男はなぜ自分がそのような扱いをされるのかが理解できずまた怒るのである。
 怒りを抱く度に、男は周囲の物に爪を立てた。己の歯でもって短くガタガタになったその爪は、しかし年の近い子供たちの皮膚くらいならたやすく引き裂くことができた。スッと入った赤い線、じわっとにじむ液体。泣き出す声に大人の怒鳴り声。男はより一層一人きりになった。
 石に爪を立て、木に爪を立て、プラスチックやアスファルトにも爪を立てる。男の指先はいつだってボロボロだった。それでも引き裂くことがやめられなかった。その行為自体に喜びを見出していたわけではない。気が休まるわけでもない。しかしやらずにはおれないのである。
 男を心配したその女は、男の爪を赤く染めた。血で、ではない。ネイルカラーでもってである。
 正しく言えば、女が心配したのは男そのものではなく、男の爪である。怒り、大声で何かを訴える男に適当な相槌をうちつつ、やすりで整え、表面を磨き、ベースを塗り、赤いポリッシュで色付けた。深みのあるその赤は、男の怒りによく馴染んだ。
「勝手に剥いじゃダメですからね。また今度、専用の液体で落としてあげますから、それまではそのままで、」
 その後も男は怒り続けた。しかし爪を立てようとする度に彼女の顔がちらついて離れない。いつものように爪を立てようとする。が、一瞬悩んでから指の腹でなぞるだけにして、やめる。
 男の手を取る女の爪は、いつも青く染められていた。男はそのような青を、見たことがなかった。
 ──私にも、その色を塗ってはくれまいか。
 女は男からの申し出を聞き、少しだけ困った顔をした。男には何故彼女が困ったのかがわからなかったが、酷く悪いことを口にしたような気になり、自身を恥じ、自分自身に怒りを向けた。
「あなたにはこの赤が一番お似合いだと、私は思うんだけどなぁ……」
 女の指が、男の手を撫でる。ぶわっと、男の血液が、そこに集中した。
「でも、特別ですよ?」
 そう言って女は、男の薬指一本だけを、女のそれと同じ青で染め上げた。
 見慣れない青。男は自身の中に生まれた、見たことのない感情に、呆然とした。

令和2年10月20日

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