『新世界の魚たち』

波打ち際を訪れたその人は、劣悪な環境の海の中で必死に生き延びようとする小魚たちをみて、胸を痛めた。
足下に水槽を沈め、「ほら、ここへお逃げなさい。わたしが定期的にご飯をあげましょう。ここは天変地異もない。天敵もいない。安心安全ですよ」とささやいた。

そのときわたしはひとりぼっちで、おなかもすいていたし、さみしかった。
ひとりでふらふらと泳いでいたら、水槽を見つけた。
とっさに、「安全な住処だ」と思った。
横から知らない魚が泳いできて、「ありがたい、ありがたい」と言いながら、入っていった。
ぼんやりした魚たちは、ぼーっとしたまま、吸い込まれるように入っていった。
彼らの姿が少し奇妙で、後に続くのが怖くなり、わたしは元来た海に戻ることにした。

荒れ果てた海だったが、住める場所は点々と残っていた。

新参者を拒み、追い返されることもあったが、
ともに暮らそうと、受け入れてくれるところもあった。

群れが大きい方が守られることや、小さい方が便利なこともあり、それは場所によって異なっていた。
個体としては長く生きられなくても、群れとしては、確実に、適応能力を高めていった。とにかくみんな、必死に生きた。

その横で、水槽を探し求める小魚たちもいた。
天敵に襲われて怖い思いをしたり、危険を冒してまで食べものを探し求めたりしなくていいし、なにより子どもたちにとって安全だ。天変地異に翻弄されることもない。
天国だ、と喜んだ。
定期的にえさを与えてくれる人のことを「かみさま」と褒め称えた。
小魚たちは、水槽の中で愛し合い、ときには争いながらも、おおむね幸せに一生を終えた。
そのすべては、管理人である人の手中にあったが、日常は平穏に過ぎ去り、そのすべてが「当たり前」になっていたので、なんの不満もなかった。

海に残る魚たちは、どんどん劣悪な環境になる中で、多くが死んでいった。一方で、生きる知恵とたくましい身体を手に入れるものも現れた。そんな魚の周りに仲間が集まり、助け合い、天敵から身を守った。

ある日、わたしは天敵に喰われて死んだ。
あの水槽に逃げ込んでいれば、もっと長く生きられたのだろうかと、命つきる前にふと思った。
気がついたら、わたしは水槽を眺めていた。

数が増え、水槽がきゅうくつになってくると、小魚たちの間で、時々縄張りのけんかが起きるようになった。
小魚たちは勝手にけんかを始めて、少しだけ仲間が死んだ。
それについて、管理人である人は心を痛めはしたが、眺めるばかりだった。
魚が死んだのは、勝手に魚たちが始めたことであって、自分ではどうしようもなかったから。

管理人である人は、魚たちに仲良く過ごして欲しいと願っていたが、水槽の中の世界はどんどん崩れていった。疑心暗鬼にとらわれた魚たちが縄張りを巡って、共食いを始める始末だった。
管理人は知恵を絞って、争いが起きる度に、こっそり毒を入れた。
争いが起きると、環境が悪くなり、仲間が死んでいくので、水槽の中の魚たちは、争うことを恐れるようになった。
魚たちがおとなしく暮らすようになると、管理人である人は、毒消しの薬を入れて、前よりずっと過ごしやすい環境にしてあげた。

しばらくして、数が増えると、また争いが起きるので、管理人である人は、定期的に毒を入れて、定期的に毒消しを入れることになった。そのたびに、何十匹かの魚が死んだ。

小魚たちは、管理人である人を「救世主、かみさま」とあがめた。
真相を知らぬまま。

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