『2月14日』

「ハッピーバレンタイン。…それと、遅くなっちゃったけど4ヶ月記念も兼ねて」

 シンプルな紙袋を差し出して、ソファの隣に腰かけた恋人がはにかむように微笑んだ。こちらに寄せた花の顔から、彼女が愛飲するハーブティーの香りがふわりと広がる。

「有難う。…チョコレートと、ネクタイ?」
「2月14日って、ネクタイの日でもあるみたいで。…もしかして、もう持ってた?」
「…いや、少し昔を思い出したんだ」

 過去にも、こうしてネクタイを贈られた事があった。『1年前の今日は出会った日だから。…それに、ネクタイの日みたいだし』と差し出されたいつかの10月1日。
 鮮明に脳裏に蘇るのは、俺を引き留めようと袖を掴む1人の女の姿。

『最後に一度だけ私を抱いて。…それで、本当に終わりにするから…!』

 珈琲の好きな女だった。結婚を見据えた相手ではなく、欲と寂しさを満たし合うだけの都合の良い間柄。
 嘯いた日々が3年に差し掛かろうとしたその日、俺はその女に別れを切り出した。泣き縋る女を望み通り抱いた後、いつか贈られたネクタイを枕元に残して。
 相手を利用し合う俺達は、ずっと不安定な関係だった。月に一夜の偽りを重ねた所で、好き同士の真似事をしていただけで。どれだけ恋人のふりをした所で、約束の夜以外の時間は友達未満の他人でしかなかった。空虚な俺達の3年間を、『月に1度会って体を重ねる』『お互いに干渉しすぎない』という約束だけが繋ぎ止めていた。

「また考え事?」

 目の前の恋人に向けた恋情すら、抱く事も無いまま。

「__ねえ。好きになってくれて、付き合ってくれて有難う」

 幸せだよ、なんて花笑む彼女を抱き寄せて、その背に流れた豊かな黒髪を撫ぜる。
 腕の中の彼女と付き合う為に、俺はあの女を切り捨てた。胸の奥に広がる温もりは、偽りの3年間では得られなかった感情で。
 全てを知り尽くしていたようで、何も知らなかった。体は簡単に暴けても、心を見透かす事は出来なかった。
互いを騙していた俺達はどこまでも歪で、どこまでも他人同士だった。

 視界の端で微笑が華やいで、思わず小さく笑みを零した。「ね、大好きだよ」「ああ、俺も」慈しむように絡む視線の合間、心から溢れる言葉を囁いて、掬い上げた唇にそっと口付けを落とす。
 胸の奥を甘く満たすカモミールに、俺は静かに目を閉じた。記憶に残る珈琲の香りに、そっと別れを告げるように。

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