『図書室のイズミ』

教室内はざわざわと騒がしい。
周囲は皆どこか落ち着かないようで、行き場を無くした熱のようなものが空気中を満たしている。

黒板の縁には色とりどりの花ーーー薄い紙で作った、まるで子どものお遊びのようにちゃちな、それでいて明確な存在感を持つーーーが飾られている。チョークで書かれた埋め尽くすほどたくさんのメッセージ。

『卒業おめでとう!』

僕はそれを、自分とは関係のないもののようにぼんやりと眺めていた。

その時、前の席の女子二人が何やら話しているのが聞こえてきた。

「そういえばさ、ほらあれ、“図書室のイズミ”」
「ああ、あの!噂が本当なら……今日だよね」
「そう!見に行ってみたい気もしない?」
「せっかくのおめでたい日に嫌だよ!良い思い出で終わりたいじゃない。もし見えでもしたら……」

女子生徒の一人はそう言って、身震いをしながら両腕をさすっている。
僕は身を乗り出し、「ねえ、それって……」と尋ねようとしたが、横から別の男子生徒が遮った。

「それってあれだろ!?“卒業式の日の深夜に現れる図書室の霊”!」
「そうそう。なに、興味ある感じ?行ってみる?」
「俺も嫌だよ!夜の学校とか考えるだけでぜってー無理」

男子生徒は心底嫌そうな顔をする。
ちょうどその時、前の扉から「席付けー」と言いながら担任が入ってきて、所々で集まっていた生徒達は皆自分の席へと戻っていった。

若い担任教師は改まった様子で教室内をぐるりと見渡すと、教卓に置いた出席簿を開いた。

「さて、これから出席を取る。最後くらい、大きい声で返事しろよ」

そう言って、ア行から順に読み上げていく。その声がほんの少し震えていて、それにつられて目を赤くしている生徒もいた。
僕は一人ぼんやりと、黒板を眺めていた。

***

今日は卒業式ーーーだった。
今はもう、校舎には誰もいない。
生徒も、父兄も、先生方も。

今の時刻は、深夜11時45分。
僕は、例の図書室の前にいた。

僕にはどうしても確かめなければならないことがあって、こうして深夜の学校に残っていた。
もちろん、誰にもバレていない。

当たり前だが電気はどこも消えていて、辺りはほとんど何も見えないくらい暗い。
あの女子生徒も男子生徒も夜の学校を怖がっていたけれど、僕はそんなこと一切思わなかった。

ちらりと腕時計を見て、それから僕は図書室の中へ入った。

司書の先生が座るカウンターに、6人がけのテーブルがいくつか。それと同じ木の椅子が並ぶ。

そこは、いつもと何も変わらなかった。
一番奥の、窓際の席以外は。

月明かりに照らされたそこに、ぼんやりと浮かび上がる姿があった。
僕は目を凝らす。
そして思わず、呟いていた。

「……泉さん」

彼女が、いた。
思ったより驚きは少なかった。
恐怖は皆無だ。
なんだか、夢を見ている感じ。

彼女はあの頃と少しも違わぬ姿でそこにいた。つややかな黒い髪、青白い肌。
逆に彼女の方は驚いたようにやや目を見開いて、僕を見た。

「……久しぶり」

僕は静かにそう言った。
彼女ーーー泉さんは、

「まさか本当に、会えるなんて」

そう呟いて、口元を覆った。
そしてあの懐かしい笑顔を見せた。
僕は微笑み返して、彼女の向かいに腰掛ける。

「元気だった?って聞くのはおかしいかな」

彼女はうふふ、と微笑む。

「長かったなぁ。あなたに会えるまで。随分と時間が経っちゃった。わたしの感覚だと、100年は過ぎたみたい」
「100年は長いなあ」
「どんどん、離れて行っちゃう気がして。物理的な距離も、ね」

上手いこと言った、と彼女は笑う。
しかしそれから一変して、不意にくしゃりと顔を歪めた。
スカートの上で握っていた手を、机に乗せる。
そして僕の目を見て、話し始めた。

「ねえ、聞いてね。わたし、あの卒業式の日に高熱を出して、それで休んだの。肺炎だった。数日間熱が全然下がらなくて、そのままーーー……。ずっと、あの日……四年前、あなたと約束したこの場所に来られなかったことが心残りだった」

置いた手のひらを、ぎゅっと握り込んだ。
彼女は震える声で言った。

「わたしがあの日、あなたに会えてたらーーー今はもっと違う未来があったって」

僕は首を横に振る。
仕方のないことだったのだろうと思う。誰のせいでもない。
彼女の目に、涙が溜まっていく。
それはギリギリのところを保って、その瞳を濡らし続ける。
彼女は一度目を閉じて、そして開いた。

「あのね、わたし、今年から、ここで働くことになったの。念願の先生になるのよ。あの頃話してた夢が叶うの」

こらえきれず、つぅ、と頬を透明な涙が伝う。

「今日、それをあなたに伝えに来たの。ずっと来れなくてごめんなさい。それとね、もう一つ。多分、あの日わたしはあなたと同じこと考えてた」

ぽたりと、雫が落ちた。

「高校一年の時、この図書館で会ってからずっと思ってたこと。同じクラスになって、同じ図書委員会に入って、仲良くなって。ここであなたと夢について話したことも、ずっと忘れない。そして今日のことも」

彼女は流れ続ける涙を拭いもせずに、目の前の僕に向かって呼びかけた。

「ねえ、イズミ君。あなたが好き」

その言葉を聞いたとき、僕の中で今までの記憶が弾けた。
高校一年の春、彼女と出会ったこと。
高校二年に同じクラスになって、お互い本が好きで図書委員になったこと。
高校三年に、この窓際の席で将来の夢について話したこと。彼女は先生になりたいと言い、僕はその教材を作る出版社に入りたいと言ったこと。
告白しよう、と決意した日のこと。
そして、卒業式の当日に図書室へ来るように約束した前の日のこと。
当日、現れない彼女を待って夜までこっそりと図書室に残ったこと。

その帰り道、僕が事故にあったこと。
永遠に戻れなくなったこと。

僕はずっと、この世界に未練があった。
彼女以上に、どうしても伝えたいことがあった。
だから毎年卒業式の日には図書室へ来た。日付を越えるまで、そこにいた。18歳で卒業をして、それから何回も同じ日を迎えた。

僕はずっと18歳のままだった。
今、彼女は22歳になっていた。
そして僕は、ようやく彼女と会うことができた。願ってもない彼女からの言葉を聞くことができた。

僕は彼女に手を伸ばした。
指先が薄くなっていた。
彼女も手を伸ばした。
それは、いとも容易くすり抜けてしまった。
それでも手を伸ばした。両手で、彼女を抱きしめた。彼女も僕に手を回した。
僕たちが触れ合うことはない。今も、これから先も。
けれど、確かに触れ合っていた。

僕のすぐそばで、彼女が泣いている。
僕はその涙を拭ってやることができないのがとてももどかしい。
どんどん、薄くなる。
もうほとんど僕が存在しない。

だから言わなきゃ。
最後に言わなきゃ。

「泉春子さん、ずっと君が好きでした」

彼女の涙が一雫、地面に落ちた。
僕は笑って、彼女に、そしてこの世界にさよならをした。彼女も笑って、そして言った。

「さよなら、冬野和泉くんーーーいいえ、”図書室のイズミ”くん」

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