『キャンバスに描きなぐるのは、』

あぁ、疎ましい。

群がる女子も、媚びうる笑い声も、バカ笑いしている奴らも、なにもかもが気にくわなかった。

苛々した手つきで紺の絵の具をパレットにぶちまけた。そして目の前にある大きすぎるキャンバスに筆を叩きつけた。

ぐしゃぐしゃとキャンバスの中心から闇が生まれていった。

そこから先は無心で筆を動かした。白いキャンバスが紺一色になるのには、結構な時間がかかった。気がつくといつの間にかまわりの人間たちは帰ったようで美術室にいるのは私一人だけだった。

時刻は午後7時をまわったところ。急いで片付けないと見回りの先生が来てしまう。とりあえず筆を瓶に突っ込み、パレットは乾燥棚に乗っけて、キャンバスを室内の端の方に追いやった。雑巾で机を拭けば申し分ないだろう。

ガラガラ、とドアの開く音がして心臓がどくんっ、と跳ね上がった。恐る恐る後ろを振り返ろうとしたら、話しかけられた。

「なに、浦野お前まだ残ってたの?」

この気だるそうな声の主は知っている。顧問の篠先生だ。安心した。見回りの先生ではなかった。

「今帰るところですよ。それよりなんでいつもはさっさと帰る先生がここにいるんですか」

「最近放課後、美術室に部員じゃない奴らいるだろ。あいつら俺の課題が終わんねえって言うから放課後締め切りにしてやらせててさ、その提出待ちしてたらこんな時間てわけ」

「甘いですね。そんな奴らみんな単位あげなきゃいいのに」

「…もしかして浦野、怒ってる?」

「怒ってるもなにも、うるさすぎてかないません。やかましいです」

「うおお、怖えぇなあ。そんなこと言ったって美術室はお前のだけじゃないじゃんか。ん、そっか、浦野は友達いなくてひとりだもんなあ、そりゃやかましくもなる…」

先生の声に苛々したので、さっさと丈の短い濃紺のダッフルコートを羽織り、臙脂色のリュックを背負って美術室を後にした。後ろからさよならくらい言いなさいよー、という声が聞こえたが無視した。

足早に駅へと急ぐ。冬の風は刺すように吹き付けてきて身体中が痛かった。赤信号、立ち止まる。ふと先生の言葉を思い出した。

「図星だ…」

たぶん学校にいる人のなかで、一番私のことを知っているのは篠先生だ。それがまた悔しい。

「ふん、畜生っ」

青信号、走り出す。息を切らしながら、夜の道を駆け抜けた。ホームに着いて電車に飛び込むと、会社帰りのサラリーマンに目を剥かれ、そんなことにさえ苛ついている自分に一番苛ついた。

翌日、憂鬱になりながらも美術室に行くと人一人いなかった。昨日の騒々しさが嘘のようで、呆気にとられていると、黒板に一枚の紙が張られているのに気づいた。

「なんだ、これ」

"今日から放課後は部活動のみ開放することにしました。課題が終わってない奴は自宅で終わらせるように。 篠"

紙の隅っこの方に目を凝らすと、小さく走り書きがあった。

「"やったね、浦野!"って…!」

一言多いんだよこのインチキ教師、と先生に抱いた感謝が炭酸のように昇華してしまったけれど、何だかんだ優しい先生なのだ。憎めない。

「静かだなあ」

響いた声は重力に引っ張られてどっかに落っこちていった。

さあ、絵を描くのに没頭しよう。そんで一番最初に彼に見せよう。飛びっきりのを描いて驚かせてやるんだ。

紺色のキャンバスに白い絵の具で星を落とした。いろんな願いを込めてひたすら落としていった。

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