『檸檬の恋』

 私は檸檬だ。檸檬の木に成る、ただの黄色い檸檬。

 私が成っているこの木の持ち主は、町の小さな家電屋を継ぎ、細々と営みながら小説家を目指す若い青年である。彼は美丈夫とまではいかないが、澄んだ瞳を持つ良人であった。小説を書くことが好きということから分かるように、彼は寡黙で内向的なため恋人は長いことおらず、また、両親も数年前に他界している。一人子で、兄弟もいない。

 そんな独り身の彼が文章を書くこと以外で好きなものと言ったら、私のいるこの店の裏庭の手入れであった。

 店が定休日のこの日、彼は浅葱色の頭巾を被り、庭の枯葉をかき集めていた。あの量、焼き芋でもするのだろうか。昨夜は寝ずに原稿を書いていたらしく、その顔には疲れが見てとれた。そのまま彼を見守っていると、どうやら焼き芋をやろうという訳ではないらしい。彼は枯葉の山に火を着けると、すぐに母屋の中へ走り、大量の紙の束を腕一杯に抱えて出てきた。大雑把に抱えられたそれの一枚がひらりと地面に落ちる。普段は几帳面な字が珍しく乱れた文章が並ぶ原稿用紙だった。

 彼は私の叫び声に気付かずにそれらをメラメラと燃える火の中へ放り込んだ。いつもの彼とは似ても似つかないような形相で、彼はそれを見ていた。彼の込めた言葉がただの炭になっていく様を、濁った瞳で見つめていた。

 どこからともなく風が吹く。彼の落とした一枚の原稿用紙が灰と共に高く舞い、檸檬の木が大きく揺れ、私は落ちた。

 彼の身に何が起きたのか、私は知らない。
 ただ私は、このとき、私が恋に落ちていたことを知った。

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