『押入れの中の物語2』

 ユキちゃんのお家は、町の中心にある大きな古い団地だった。
 松の木が近くの山に植えられていて、コンクリートでできた建物の群れの周りには、木がほとんどない。ケイコは一年中木や花に囲まれた自分の戸建ての家を思い出して、団地は寒そうだな、と憂鬱な気分で思っていた。

 「一番手前の入り口の、三階だよ」

 あさこちゃんが自信ありげに言って、汗ばんだ柔らかい手のひらでケイコの手を握って、一番手前のA棟へぐいぐい引っ張った。
 のそっとした牛みたいな棟には、三つの口が開いていて、それぞれ薄いけどひどく重い引き戸がついていた。それを二人がかりで引いて、薄暗い中に入る。
 外より一、二度気温が下がったように思える。あさこちゃんが身震いして、それが握った手を通じてケイコの体を震わせた。
 あさこちゃんのことは嫌いと言えば、嫌いなケイコだったけれど、暗くて寒いこの空間ではあたたかいあさこちゃんの手は大事なお守りのような気がした。
 入ってすぐのみぎがわには、あさこちゃんの矯正具と同じ色のポストがフジツボのように壁に並んで引っ付いていて、反対側にも塗装の剥がれた電気メーターが並んでいた。
 二人の正面には、どよんとした気の悪い空気をまとった階段が続いていた。あさこちゃんが、いい?とケイコを伺うように見てくる。ケイコはこくりと頷いて、先に階段に足をかけた。
 階段、踊場、階段、踊場と交互に上がると、五番目の階段に着いた。着いたところで、ケイコは思わず顔をしかめた。
 五番目の踊場の横の壁に埋め込まれてある、モスグリーンの塗装が見事なまでに剥がれた鉄のドアの向こうから、確かにごみの匂いがしたからだ。

 「ここだ」

 あさこちゃんの小さい呟きが、登ってくるときに響いた足音と同じように、五階まで続く棟の細長い空間でじんわりと広がって消えていく。
 ドアに近づくにつれ、匂いもひどく、きつくなっていく。あさこちゃんが鼻をつまむジェスチャーをする。
 ふざけてやっているんだろうけど、ケイコはそれを見て突き放すようにあさこちゃんの手を離した。

 「帰ろう。あさこちゃん、帰ろう」

 懇願するように、そして突然手を離したことを誤魔化すように、あさこちゃんのコートの袖を引っ張る。

 「イヤよ。気になるもの。ケイちゃんだって、気になったからついてきたんでしょ。ユキちゃんのお家の中、見たかったんでしょ」

 恐ろしい顔をしたあさこちゃんが、怒ってケイコの手を強く振り払った。
 ケイコは困って、あさこちゃんの汗がついた湿っぽい自分の手をぎゅっと握った。冷たいこの空間に手のひらを晒しておくと、凍ってしまうんじゃないかと思った。

 「いいじゃない、もう。ユキちゃんのお家、ひどい匂いだったんだから。それって、ユキちゃんが本当にごみやしきに住んでるって証拠でしょ。わざわざ汚い中なんて見たくないよ。……晩ごはんが、不味くなっちゃうよ」

 まくし立てた言葉の最後は、ふざけて言ったことだった。この最悪な空気をどうにか変えたかった一心で。ここのクサい空気を外の新鮮な空気へ入れ換えるように。
 あさこちゃんはぎこちなくでも、笑ってくれた。あたしみたいに、突き放すなんてことはしなかった。
 そのとき、ユキちゃん家のドアの向こうからガサガサッと、何かの音がした。思わずあさこちゃんと顔を見合わせる。二人のぎこちない笑顔はさらにぎこちなくなって固まった。
 ぺたぺた、と裸足で歩くような音がドアの向こうで、奥へ奥へ逃げるように遠ざかっていく。
 あさこちゃんに手を乱暴に引かれて、階段をかけ降りた。ダダダダッ、と足を踏み鳴らす音が耳の奥で響く。背負っているランドセルの中の物が、荒い移動に抗議するようにガシャガシャ鳴った。
 開けっ放しにしていた重い引き戸を通って外に飛び出す。冬の澄んだ空気を肺に押し込んで、今まで居座っていたごみの匂いを追い出す。

 「……か、帰ろう」

 白い息を吐いて、膝を抱えたあさこちゃんが先に歩きだす。ケイコはうん、と返事をするだけで、歩き出さずに、いつの間にか曇っている空を眺めていた。
 あさこちゃんに急かされて、砂利を踏んで敷地を出る前に、ふと目に入った三階の窓から視線を感じた。ケイコは振り返らなかった。

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