『押入れの中の物語4』

 「ちょっと、ねえ、あさこちゃん!メイちゃん!」

 帰りの会が終わったすぐそばから、子ネズミみたいに素早く教室を出ていったあさこちゃんとメイちゃんを追いかける。途中で水野先生から引ったくるようにしてプリントを受け取った。二人は丁度、昇降口で下履きを履くところだった。

 「なあに?ケイちゃん」

 トントン、とタイルの床にピンクの靴の爪先を打つあさこちゃんが振り返る。何の悪びれもない顔に、ケイコは一瞬言葉が詰まった。

 「さ、さっきのこと、どういうことなの?」
 「さっきのこと、ねえ?」

 意味がわからないとでもいうように、肩をすくめてみせるメイちゃんが、隠す気もなくクスクス笑うあさこちゃんに目配せする。

 「ふざけないでよ!あたし知ってるよ。メイちゃん、あなた今日習い事があるだなんて嘘でしょ。ユキちゃんのお家に行きたくないから嘘ついたんでしょ」

 二人の顔つきが変わった。あさこちゃんはケイコの剣幕に少し怯んだようだけれど、メイちゃんはそうはいかなかった。
 普通の女の子より倍大きい体を膨らませて、ケイコの小さな体を覆うように、前に立ち、ケイコを見下ろす。

 「急に火曜日もやることになったのよ。あたし、今度の発表会で役を貰ってるから、練習しなきゃいけないの。文句ある?」

 文句?文句なんて、あるに決まってる。
 メイちゃんの尊大な態度に負けじとケイコはメイちゃんを睨み上げて、くいと顎をしゃくった。

 「ふん、どうせメイちゃんは役は役でも、岩か大木でしょ。プリマだなんてこと、あるわけないもの!」

 堂々と言い切った後、かなり無謀だったかもしれない、とケイコは後悔した。メイちゃんのホームベースみたいな顔がみるみる真っ赤に燃えていく。大きく開いた鼻の穴からは、白い煙が出そうな勢いだった。

 「な、な、な……!」
 「それか機関車かもね!プリマの妖精を乗せて、しゅっぽーっしゅっぽーって走り回るんだわ」

 言葉を失うメイちゃんへのケイコの一押しに、あさこちゃんまでもが耐えきれず吹き出した。

 「あんた……っ!!」

 恥ずかしさと怒りで、真っ赤を通り越して赤黒くなったメイちゃんが、岩のようなげんこつを振り上げる。
 ケイコはこのとき、殴られてもいいと覚悟していた。けれど、実際に頬のうぶ毛にげんこつが触れると、想像以上に恐怖が勝ってすぐに避けようとした。
 けれど、遅かった。
 ケイコは自分の体がランドセルごと一瞬ふわりと浮いたと思った。でも、それは違って、物叩き付けられるのと同様に、ケイコの体は下駄箱に打ち付けられた。

 「きゃああ!!」

 あさこちゃんが悲鳴を上げる。ケイコはバカ、とあさこちゃんを罵った。
 なんであさこちゃんが怖がってるの?あたしのほうが叫びたいよ!

 「あなたたち、何やってるの!?」

 ケイコの崩れた体に、誰かが駆け寄る。痛みで涙の滲む目でメイちゃんを睨みつけていたケイコは駆け寄ってきた人物に視線を移した。

 「大丈夫?ぶたれたところ以外に、痛いところはない?」

 昨日、あさこちゃんと歩いていたときに二人を見てきた上級生の子だと、ケイコはすぐにわかった。真面目そうな顔つきで、しゃがんでもケイコより背丈が高い。

 「だ、大丈夫です…ほっぺだけです」

 すぐに立ち上がろうとして、膝が笑ってケイコは危うく再び下駄箱に倒れそうになった。
 上級生のお姉さんが優しく受け止めてくれた。お姉さんから漂ってきたふんわりとした香りに、ケイコはドキッとした。

 「怖かったのね。大丈夫よ」

 まるで小さな子供をあやすようにいい香りに抱き締められて、あたしは赤ちゃんじゃない!と、ケイコは目を白黒させた。

 「大丈夫ですから!ちょっと、びっくりしただけで…ありがとう」

 お礼を言って、ずっとくっついていたくなる、惚れ薬のやうな香りから逃れる。殴られたショックで未だ震える膝に喝を入れると、ケイコは顔を青くしたメイちゃんとあさこちゃんに向き直った。すぅっと息を吸って、吐き出すように叫ぶ。

 「人の悪口なんて、あたしは大嫌い!ユキちゃん家の前で言ったことは取り消せないけど、あたしはあんなこと本当は思ってない!メイちゃんに言ったことも謝る。ごめん。でも、これだけは言わせてよ。ずっと、言いたかったの。あたし、人の悪口言ったり、根も葉もない噂して楽しいなんて思ってるあなたたちのこと、すっごくカッコ悪いって思う!」

 ずっと、ずっと文句を言いたかった。ママも友達もそうだけれど、人の悪口を口にするなんて、気持ち悪い。本当はメイちゃんやあさこちゃんのことも悪く言いたくない。今まで曖昧にしてやり過ごしてきたけれど、あたしは悪口より楽しい話がしたい。猫や、妖精や、少女漫画やアクセサリーの話。好きな男の子の話。まだ八歳だからって油断して、悪口ばっかり言ってて大切な時間が無駄にならないように。悪いことで思い出がいっぱいにならないように。あたしは雪のように真っ白な綺麗な思い出が欲しいんだ。

 「悪口と、殴ったのとで、おあいこよメイちゃん。じゃあね、二人とも!お姉さんも、心配してくれてありがとう!」

 ケイコの足が、そわそわしだした。
 ケイコはポカーンとした三人に叫ぶと、走れ!と命令する足の言うがままに走り出した。
 手には殴られたとき思いっきり握ってしわくちゃになったユキちゃんのプリント。昇降口を飛び出すと、ケイコは立ち止まって空を見上げた。吐いた息が、真っ白になって消えていく。

 「雪だ!」

 白い小さな雪が大空からふわふわと落ちてくる。ケイコの瞳がそれを映してきらきらと幼く輝いていた。
 ──そういえば、ママが雪は空のごみや埃でいっぱいで汚いから、食べちゃダメだって言いつけてたってけ。
 ケイコがまだまだ小さかった頃の話だ。今でもそうだが、今以上にいたずらっ子で母親の言うことをなかなか聞かなかったケイコは、その話を聞いたそばからふざけて空から降りてくる雪を食べてしまった。雪はわたあめのようには甘くはなく、埃っぽい味がした。
 ケイコは悪いことを考えついたあさこちゃんみたいに、にんまりと笑うと、あーんと思いっきり口を開けて目の前を舞う雪を食べようとする。けれど雪は意思をもって食べられまいとかわすように、ふわりと舞うと、ケイコの赤くなった鼻の頭に落ちて溶けた。
 後ろで昇降口から出てきた子供たちがはしゃいで声をあげている。ケイコは一人、恥ずかしく思って顔を赤くしながら、また走り出した。肌に突き刺さってくる凍った風が、腫れた頬に気持ちいい。
 鼻の頭の小さなしずくは、勝ち誇ったようにきらきら輝いていた。
 
 

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