『押入れの中の物語5』

 寒い階段を駆け上がる。不思議と昨日来たときよりも棟の中があたたかい。今日のほうが寒いはずなのに。走ってきたからかな、とケイコは荒く呼吸をくり返しながら思った。
 違うかも、と思ったときにはもう、ユキちゃん家のドアの前に立っていた。
 やはり、ごみの匂いはする。けれど寒い中を走ってきたケイコの鼻は、鼻水のせいで多少効きづらくなっていたから、それほど気にはならなかった。
 手袋をはずしてコートのポケットへ突っ込む。指先の跡を残して薄く剥げている呼び出しベルを押す。グッと押すと、ピンと跳ねるような音がして、離すとポーンと鳴る。
 ごくり、と唾を飲み込むケイコは、しばらく待った。このしばらくは、ケイコにとってとても長く感じられた。ケイコは思いきって銀色の丸いドアノブを回してみた。ドアノブはとても冷えている。
 カチャリ、と音を立てて回すと、握ったままゆっくり手前に引いてみる。
 ──ダメだ。鍵が閉まっていて、開かない。ドアノブを離すと、カチャッと首を回して戻った。
 ケイコはぴょんぴょん、と歩き始めの子猫のように跳ねる心臓を押さえ付けて、優しく宥める。

 「ゆ、ユキちゃん」

 つい、ユキちゃんを呼んだが、それはなんでもこだまする棟にも響かない小さな声だった。
 自分の声がひどく掠れていて、ここまで走ってきた間にこんこんと湧いていた自信や、ユキちゃんへの言葉たちがすっかり怯えて、ケイコの中に隠れてしまっていることに気がつく。二の句が継げず、ついにケイコは踵を返すことにした。
 コーン、コーンと階段を降りる音が響く。ユキちゃんと自分を隔てる、あの忌々しい鉄のドアから離れても、ケイコはものを言えそうになかった。
 もしかしたら、このまま降りていったら、ユキちゃんがあのドアから出てきて、にっこり笑ってあたしにプリントちょうだいって言ってくるんじゃないかな。
 そう思うと、ケイコの枯れた松林のような心に一輪の花が咲きだす。ケイコはせっかちな猫になったつもりで、ひらりゆらり、軽やかに階段を降りていく。
 けれど、ケイコが一階の踊場に着いても、ユキちゃんは出てきてくれなかった。
 ケイコの周りが急に寒くなる。心の花が霜に覆われて、空から半端に射し込んできた光に溶かされ、茶色く萎れる。
 ケイコは寒さに震えながら、垂れてくる鼻水を啜った。
 とぼとぼと元気なくポストの群れの前を通り過ぎて、入ってきたときは素早く開けられた引き戸をのろのろと引く。サッシの溝にはまった小石が憎たらしい。
 なんとか外に出ても、ユキちゃんが出てきてくれる気配はない。すがるように見た三階の窓は警戒しているように緑色のカーテンが全部閉められていた。
 ケイコが黒い森に這う気味の悪い霧のようなものを胸にまとわせたまま帰ろうとしたとき、ケイコの耳にサンタクロースのソリに取り付けられた鈴のように楽しげで、明るい声が届いた。
 ピタリ、とケイコの動きが固まって、しばらくしてから砂利を踏む音を立てないように、静かに音の方を振り返った。ケイコの目が不安気に曇る。
 音は止んでいた。
 意地悪な雪の妖精の声だったのかもしれない、とケイコはがっかりして立ち去ろうとする。けれどまた、その声が響いた。今度はひときわ大きかった。ケイコを惹き付けるためのように思えた。
 ケイコははっと息を吸い込むと、バネのように跳ねて、声の方へ走った。
 棟にあら三つの引き戸を全て素通りして、建物の角を曲がる。曲がった先は小さな坂になっていて、くだると少し大きめの公園があった。公園には、大きめの松の木が一本立っているだけで、他の植物は雑草でさえ生えていない。
 綺麗というか、物悲しく整備された敷地内で、唯一置いてあった青いジャングルジム。そのてっぺんに座っている少女がいた。
 ──雪の…妖精だ。
 鉛色に曇った空からは光もなにもないのにきらきら輝いて舞う雪の群集の中心に、まるで讃えられているかのように嬉しそうに、幸せそうに微笑むユキちゃんがいた。

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