『星間中距離恋愛』

 数年前、「火星の海でつかまえて」という安っぽいドラマが流行った時、彼女はひどくそれを馬鹿にした。確かに焼き古されたモチーフだったが、僕は好きな役者も出ていたし、わりかし好んで見ていた。
 しかし、彼女は「このご時世、地球と火星で暮らすカップルなんて山ほどいるから、わざわざドラマのモチーフにしなくてもいいの」と言った。
トウキョウの安アパートで一緒に暮らしていた時のことだ。

「じゃあ、トウキョウとサンパウロとで離れて暮らすカップルの話だったら納得する?」と尋ねると、「その近距離恋愛なら見てみたいわ」と彼女は明後日の方向を見ながら、そう答えた。

 彼女は僕と比べて、はるかに自立していたし、手際よく物事を進めていくタイプだった。それに会話のセンスに関しては、その言葉の選び方、引き出しの多さ、全体の構成、抑揚のつけ方、どれをとっても今まで出会った人の中で一番だった。むしろ何故、怠惰な性格で、会話がつまらない僕と付き合っているのか分からなかった。デートの度に、「ひやかしでつきあってるでしょ?」と聞くと、いつも帰ってくる答えは「部分的にイェス」だった。

 一緒にディナーをした冬のある日、2人で「恋愛と距離」について話し合ったことがある。彼女は、抽象的な話が好きなタイプだった。
彼女は、「人類の歴史は世界地図を縮めることだ」と言った。車、飛行機、そしてインターネット、全ては人と人の距離を詰めていくものだ、と。僕は概ね賛成だった。

「それに対して、恋愛は距離を離すことを志向していくと思わない?」
 彼女はたまに突き放したことを言って僕をからかう。
「離れて暮らすことで、はるか彼方から相手を想うことで、見えてくる景色もあるのよ」

 その会話を交わしてから半年後、彼女は月で働き始めた。

 エネルギー採掘計画が頓挫し、月は時代遅れのフロンティアに成り下がってしまった。エネルギー会社が出て行ったあとに、やってきたのは医療や製薬系の企業連合だった。低重力、無重力下の環境で調べなければならないことはまだ山積していた。彼女はオランダの製薬会社に入社し、研究者や医者のカウンセリングを行う仕事についた。彼女曰く、娯楽が少なく孤独な月面基地では、人との会話が極めて有意義な娯楽になるそうだ。今までの人生経験や女性遍歴、小さい頃に飼っていたペットの話まで、月面の人々は仕事が終わると、食堂の一角に集まって、故郷の酒を片手に夜な夜な語らうのだという。

 仕事に疲弊し、地球に帰りたくなってしまった人々に、優しく語りかけ、諭し、なだめ、時には下世話な話を絡めながら、背中を押して、カウンセリングルームをあとにしてもらう。それが彼女の仕事のようだった。もちろん専門的な資格は持っていなかったが、なぜか試験をパスし、体力試験もパスし、軽々と月に行ってしまった。やはり面接官を頷かせるだけの力があったのだろう。とりわけ会話に関しては。

 月へ出発する日、少し目を赤くさせた僕に彼女はこういった。

「火星と地球とでの恋愛は遠距離恋愛だから、私たちの関係は言うなれば中距離恋愛ってとこかしら」

 彼女なりのユーモアを受け止める余裕は、僕にはなかった。きっちり5秒間抱き合い、彼女は足早に僕の視界から消えていった。

        ◆◇◆◇◆

 帰り道、低く昇った月を見るたびに彼女を思い出す。眉唾な逸話だそうだが、「I love you」を「月が綺麗ですね」と表現した夏目漱石も、さすがに未来の日本人が地球と月とで別れて恋愛をするなんて思いもしなかっただろう。
 彼女が帰ってくるまでの月日の長さを噛み締めながら、月が昇る方角と重なった、一人暮らしになってしまった安アパートへと帰っていく。僕が仕事を終え、こうして家に戻る頃、彼女はうら寂しい月面基地の狭い居室のベッドで目を覚まし、職場へと向かうのだろう。日中にも月は出ていることを知りつつも、僕は寂しい夢想をしながら家路へと急いだ。

銀河の中間距離恋愛、あと1世紀くらいもすれば現実になっているのかもですね。木星より先はまだまだ時間がかかりそう。