『ようこそ,夢の掃き溜めへ』

 田んぼ道を男が一人ふらふらと歩いている。空気は澄み渡り、空には雲一つなく、肌に当たる風が心地よい、まさに理想的というほかない日のことであった。田んぼには黄金色の稲穂がたわわに実り、風が吹くたびにサラサラと小気味よい音を奏でている。数日後に控えた収穫をただ待つだけの、穏やかな日のことであった。希望と幸福だけを詰め込んだような、文句の付け所の一つもない世界ではあったが、ただ一人、道を歩く男だけは仲間外れにされていた。男は恨めしそうな、絶望と嘆きだけを詰め込んだ顔でふらふらと田んぼ道を歩いている。

 男が長い田舎道をさまようこと数十分。自分は不幸の権化であると言わんばかりの男に声をかける勇者が現れた。男がひどく緩慢な動きで声のした方を向くと、そこにいたのは勇者とは程遠い、10代半ばほどの少女であった。健康的に日焼けした白いワンピースの良く似合うその少女は、どこからどう見ても幸福な世界の住人であった。
「おじさん、どうしてそんなにつらそうなの?」少女は無邪気に明るく問いかけた。
おじさんと呼ばれたその男はしばし逡巡した後、蚊の鳴くような声でぽつりと「捨てられたから」と答えた。
「捨てられたって誰に?」
「……誰でもいいだろ。」
 そう言うと男は唇を噛み下を向いた。男はその日入社以来の付き合いであったパートナーに捨てられたばかりであった。10年以上の付き合いがあったにも関わらず、あっさりと、自分の半身以上の存在であったパートナーに捨てられた。男の心はそのことに対する恨み、悲しみ、憤りで満たされていた。しかし、男には子供に聞かせる内容かどうかを判断できる分別はまだ残っていた。
 
 少女は、うつむいたまま黙りこくっている男に再度話しかける。今度は、ひどく静かな声で。
「おじさんの気持ち、分かるよ、私。」
 その一言に男は逆上した。何が分かるだ。子供がほざきやがって。お前なんかに、幸福そうなお前なんかに、俺の気持ちが分かってたまるか。男は勢いよく顔を上げ怒鳴り散らそうとしたが、それは叶わなかった。少女の悲しそうな微笑みは男の動揺を誘うには十分すぎた。
「私も、捨てられたから。親同然の人に。」
「えっ、」
 少女は表情を変えることなく続ける。
「どうして捨てられたんだろうって。ずっといい子にしてたのに。考えても分からない。けど考えずにはいられない。苦しいよね。そういうの。」涙を湛えた瞳で男を見つめながら、少女は静かに語りかける。
 
 先に涙がこぼれたのは、少女ではなく男のほうであった。あぁ、そうだ。俺はずっと、いいパートナーだったのに。確かに、ただの会社員ではあった。しがない営業マンであった。だが、何度か成績トップになれるほどの腕があったし、給料も悪くなかった。残業だってほとんどしなかった。まさにあいつの理想だったのに。それなのにどうして…。
 ひとたび涙がこぼれると、次から次へと溢れて止まらなくなった。男はしゃがみ込み、どうして、どうしてと叫びながら、子供のように泣いた。
「悲しいよね。捨てられるのは。辛いよね。大切だった人を恨んじゃうのは。」
少女もそんな男の頭をまるで母親のように優しく撫でながら、静かに涙を流した。
 
 絶望の代弁者といった雰囲気は、男が再び立ち上がった時にはきれいさっぱりなくなっていた。男の顔つきは、目こそ真っ赤であるものの、どこかすがすがしさを感じさせるものとなっていた。少女もすでに幸福の世界の住人に戻っている。
「ありがとう。夢も希望もない世界で、君に会えて本当に良かった。」男は照れ臭そうに言った。
「まさか。私は何もしてないし、この世界は夢と希望でいっぱいだよ。」むしろ夢と希望しか詰まってないかも、と少女はいたずらっぽく笑った。
「ねぇ、おじさん。おじさんはこれからどうしたい?まだ働きたい?」
「うーん…。」男はしばし考えた。今すぐ会社を辞めても向こう5年は暮らしていけるだけの貯金はある。心を癒すためにも一度労働から離れたほうが…。いや、田舎に移住し悠々自適な生活を送り始めるのもいいかもしれない。だが…
「…働きたいかな。多分僕は働くことが生きる意味になっちゃってるから。仕事をやめたり田舎に移住したりしたらきっと僕は僕じゃなくなっちゃう。」自嘲気味に男は答えた。
「あ、じゃあおじさんこれから町に戻るよね。私もついてっていい?近所に住んでたお兄ちゃんたちに久しぶりに会いたくて。戦隊ヒーローのお兄ちゃんと大学生のお兄ちゃん。」
「もちろん。」
「やったー。じゃあちょっと待ってて。準備してくるから。」少女はくるりと後ろを向くとそのまま一本道を駆け始めた。
 
 幸せの国の少女が駆けていくのを、幸せの国の住民になった男はにこやかに見守った。その時、男の中にある疑問がふつりと湧いた。これから町に戻るのだし、とるに足らない些細な疑問ではあった。だが、男はどうしてもそれが気になった。少女が戻ってきたときに聞けばいいものの、男はだんだんと小さくなる少女に大声で問いかけた。
「おーい。ここはどこなんだーい。」気が付いたらここにいた感じがして、よくわからないんだ。質問の後半は少女に聞こえたかどうか分からない。だが、前半は少女にしっかりと届いたらしい。少女は立ち止まり、白いワンピースを翻しながら振り向いた。十全で完全な田舎の風景を背に、少女は男に負けず劣らずの大きな声で、男の訪れを祝う言葉を吐いた。

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