『匂』

部屋でごろごろしていた時だった。

窓から入る風に涼みながら本を読んでいたら、どこからか柔らかい花のような匂いがしてきた。

何か懐かしい、でも新鮮な、そんな匂いがしていた気がする。

読書に集中していると大抵のことは見逃してしまうけれど、その時はそうはいかなかった。

最初はいい匂いで済んでいたが、どんどん、噎せ返るほど匂いが強くなってきたのだ。

匂いの異常な濃度に、たまらず本を置いて匂いの元を探す。

ところが匂いの元らしき物はどこにもない。窓の近辺は風の匂いばかり。
外から入ってきた匂いではない。
しかしこんな匂いのする私物も持ち合わせていないはず。

そうこうする内に、気付けば匂いは潮が引くように消えていた。

残滓すら残っていない室内の不可解さに首をかしげながら、本を手に取った。

しばらくして、先ほどの匂いがまた自分の周囲を充満し始めた。

放っておくとまた噎せ返るほど香り出す。

匂いに気持ちを向けて探し始めると、潮が引くように匂いが消える。

これを何度繰り返した時点で、理不尽さと苛々が限界を迎えたが、匂いの元が分からないのだから何ともできない。

数日経った。
私は匂いを基本的に無視し、酷くなった時だけ匂いの元に気持ちを向ける、というやり方で匂いと付き合うことにし、今はとっとと読書の続きに専念することにした。

それからの匂いとの駆け引きは数日に及んでいると思う。

外出しなければならない日になった。

自分の周囲に匂いをまとわりつかせたままの私は人目を憚り車で友人に会いに行った。
友人は感心したように優しく微笑んだ。

「随分良い香りの香水、いい匂い」

絶句した。
というのも、もしかしたら私の錯覚かもしれないと思い始めていたからだ。

動揺しながら、ここ数日のことを説明した。
私が今香水をつけていないこと、ここ数日ずっと匂いがまとわりついていること、匂いの元を探すと匂いが消えること。

そこそこ気に掛けないと匂いが酷くなること。嫌な匂いではないから、多分何事もないだろうことを。

ただただ匂いだけが仄かに、でもしたたかに充ちている。

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