『思い出の桜の樹』

「おじさんおじさん、あのねあのね」

 小学校二年生のかずくんは、学校から家への帰り道の途中にある、おじさんの家に寄っていくことが好きでした。
 おじさんは、お菓子を扱う小さなお店を経営しています。そして、かずくんがやって来ると、タダでお菓子をひとつくれるのです。

「どうしたんだい、かずくん」

 おじさんはお店の奥にある、レジが置かれたカウンターの上で、パソコンのキーボードをカタカタと打っています。
 その脇にはパソコンとコードでつながった、手のひらに収まるくらいの小さな箱がついていました。
 おじさんが言うには、いろいろなデータが入っているとのことです。

「今度ねえ、駅前公園の桜が切り倒されちゃうんだって」

 駅前公園は、ここから一番近い駅の改札口から、国立の競技場まで続く、長い広場のことを指しています。
 その真ん中にそびえる桜の樹を切り倒そうとする計画があることを、かずくんは知ったのでした。その後には、ファーストフードのお店ができてしまうのだとか。

「どうすれば、桜が切り倒されずにすむかなあ? おじさん、どうにかならない?」

 かずくんの言葉に、おじさんはキーボードを叩く手を止めると、困った表情で頭をかきましたが、やがてぐっと背筋を伸ばして、かずくんに言います。

「――よし、ちょっと難しいかもしれないけど、おじさんが頑張ってみよう」

 かずくんの顔がぱっと明るくなりました。

 かずくんも桜の樹の下で、何度も遊んだことがありました。その幹には、いくつか靴を引っかけた跡が残っています。
 少し前、ガス風船を誤って手放し、この桜の枝に引っかけてしまった男の子のために、かずくんが樹を登り、つけてしまった傷だったのです。
 申し訳なさそうに傷をなでながら、かずくんはおじさんを信じるしかありませんでした。

 ところがおじさんは、樹を守るための目立った動きを見せません。お店に行くと、シャッターを閉めて留守にしているか、古い写真を漁っているか、パソコンをいじっているかのいずれか。切り倒す計画は止まる気配がありません。
 そしてとうとう桜の樹は、切り倒される準備として、青いシートに覆われてしまったのです。
「おじさんのウソつき……」と、かずくんは肩を落としてしまいました。
 しかし、がっかりするかずくんの家に、おじさんから電話がかかってきたのです。

 ひと気のない夜中。おじさんに連れられて、かずくんは桜の樹の根元に来ていました。

「準備に手間取ってしまったんだ。ごめんね。でも、桜の樹は切らせないよ」

 おじさんはかずくんにこの場で待っているように言いつけると、ブルーシートをめくって中に入っていきます。
 おじさんは幹を見回し、やがてかずくんが付けた靴の傷跡に目をつけました。そしてふところからあるものを取り出します。
 おじさんがいつもパソコンにつないで作業をしていた、データが入っているという箱。
 それについたコードを引き出し、桜の傷痕に差し込むおじさん。
 するとどうでしょう。桜の樹はその全身をブルブルと震わせ始めたのです。

「伝わったかい? 私たちが君と過ごした思い出。あの子とその友達も、君を思っているよ。さあ、お行き」

 おじさんが言い終わるや否や、桜の樹の震えはいっそう大きくなり、ついに根っこが抜ける音がしました。
 桜の樹はじょじょにその背を伸ばしていく。いえ、違います。浮かび始めていたのです。
 かずくんの目の前で、あの日のガス風船のように、地面から離れた桜は、ずっとずっと空高くへと昇り、見えなくなってしまったのです。

「これでもう、彼が切られることはない」

 ぽん、と肩を叩かれて、かずくんははっとしました。おじさんはすでに目の前に立っていたのです。

「思い出を集めるのに時間がかかった。すまない。でも彼はきっとこれからも生きていくことができるだろう。私たちが伝えた思い出と共に」

 こつ然と消えた桜の樹は、しばらく人々を騒がせましたが、ほどなくお店を作る工事が始まりました。
 しかし、お店ができた今でも、かずくんは心の中に、あの桜の樹が立っている姿を見ているのです。

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