『缶詰』

 肌寒さを感じて、はっと目が覚めた。
 どうやら、うたた寝していたらしい。敷布団の上に寝転がっていたが、すっかり弾力が失われて、床より多少ましな程度の柔らかさしかない。体をよじると、ギシギシと筋肉がきしんだ。
 寝転んだまま、手近な床を腕でパンパンと叩く。動くのが面倒だから、食べ物は布団の周りにある程度ストックしていた。あとはぐうたらしていれば、一週間は余裕で過ごせる。動くとすれば、床ずれ防止のために、数日ごとに身体を起こして、少し布団をずらすくらい。それ以外はひたすらに寝て過ごすのだ。
 しかし、手探りであさっても、空き容器にぶつかるばかり。水筒の中身も空だ。
 軽く舌打ちをして、僕はのそのそと立ち上がった。下の階から食べ物を持ってこなくてはいけない。歩くのが億劫になるくらいに衰えている自分の体力を、この時は一層実感できる。

 僕にはもう、親はいない。兄弟もいない。ひとりぼっちだ。
 いざという時の備えだ、とばかりに両親は生前、食べ物や水を大量に用意してくれていた。今も残っている、二人からの贈り物だ。僕はそれを食いつぶしながら生きていた。
 取り付けられた家電製品は、すでにほとんど動かない。電池を使うものだけ、使えないことはないけれど、電池がなくなってしまった時のことを考えると、とても恐い。だから動かさない。
 水道も同じだ。蛇口をひねっても、水の一滴も出てこない。風呂や洗濯など、夢のまた夢。飲み水の確保すらできない。自分の汗を貯めて飲んだことがあったけど、臭うし、しょっぱいし、で二度飲もうとは思えない代物だった。
 塩気が欲しいなら、缶詰の方が十倍ましだ。愛情あふれる手料理ならばもっといい。

 そう考えて僕は、ふっと嘲笑した。
 もはや叶わない夢なのだ。昔、淡い思いを抱いた女の子がいる。美人とか、かわいいとかとは違うものの、そばにいると安心できる雰囲気を持つ子だった。当時の僕は天才だ、神童だ、などともてはやされていたから、彼女が自分のそばにいることも、選ばれた者の特権だとうぬぼれていた。
 いつぞや、彼女が手作りの弁当を作ってくれたことがある。
 すぐそばの公園。大きなドングリの樹の下で、僕と彼女は穏やかなランチの時間を過ごしたのだ。彼女の卵焼きの絶妙な塩加減は、今でもはっきりと覚えている。一緒に浴びた草いきれ。思い出して胸がどきどきする。
 だが、僕は絶対に外に出ようと思わない。
 僕は知ったのだ。どこに行こうとも、もはや世界には、僕を傷つけ、苦しませ、息詰まらせるものしか存在していないのだと。拒絶されるくらいなら、僕は永久に引きこもるだけだ。そう、棚からぼたもちのような、幸運がやってこない限りは……。

 下の階に着いた。そこはほとんど物置で、缶詰という名の食料の備蓄が所狭しと積まれている。僕は少し考え、魚と果物の缶詰を持てるだけ持っていくことにした。缶詰一つ一つに触れるたび、刺すような冷たさが指先を襲う。
 人も缶詰も、ぬくもりから切り離されれば、冷たくなるだけだ。一体、世界にはどれだけのぬくもりが残っているのだろう。
 ほんのわずかな疑問が、上の階に向かっていた僕の足を止めた。山ほどの缶詰を抱えたまま、僕はすぐそばの壁についているスイッチを押す。
 スイッチの隣にはめ込まれた液晶画面に、ノイズが走った。未だに辛うじて動く、室外に取り付けられた小型カメラの映像だ。

 やがて映し出されたのは、彼女との思い出の残るドングリの樹だ。しかし、あの時とは違い、枝を彩っていた新緑の葉っぱも、樹の周りに生い茂っていた野原も、何も残っていなかった。画面の中では、まるで、逆さになったほうきのような大樹がたたずみ、ところどころで白い粉塵が舞っているばかりである。
 一ヶ月ほど前。敵国が上空で爆発させた毒入りの爆弾が、地上を蝕んだ。今も漂っている白い粉塵が、葉や草はおろか、動物や人間さえも窒息させて腐らせたのだ。誰も外を出歩けない。あの大樹もよく見るとどす黒く濁っている。力尽きるのも時間の問題だろう。
 僕はため息まじりにスイッチを切り、再び眠りをむさぼるべく、歩き出したのだった。

この短編小説にはまだコメントがありません。
ぜひ一番最初のコメントを残しましょう。